立ち戻る自分への問い「これはエゴなのか、指導なのか」

大人に何かを伝えようとするとき、「これはエゴなのか、それとも指導なのか」と自問自答します。
何も考えず、こういうものでしょ、というよりは良いだろうとは思いますが、大概の事が「エゴ」のように感じてしまいます。私自身のエゴを押し付けているだけなのではないか。そこにそれほど拘らなくても良いのではないか。そもそも、相手なりの考えがあるのではないか。

相手がなぜそうしたか確認して、その上で私はこう思うと語り合う時間が取れる時には良いのですが、時間がない中で「指導」となると「エゴ」ではないかを確認してしまいたくなります。その時点で、私は「正しく伝えよう」としてこれもまた「エゴ」となり、結局伝わりにくくなってしまいます。

最近は、仕事の場合には「理念、目標」と言う軸に対してどうなのか。を見たら、エゴなのか、指導なのかを判断しやすくなりました。
が、答えのないものに接する時、しかも指標もない時には困っていたのです。そんな時に「エゴでも言い合えばいい。そこからお互いに修正が必要ならすればよい」と言われてすっきりしました。

私自身は結構ネガティブに捉えて、今まで言えなくなっていた事が多く、結局体調を崩してしまう事もありました。体は正直ですね。けれども、答えがないなら「伝えあってから修正でよい」と考えられるようになってからは本当に率直に言えるようになりました。時に「言わなければ良かった」と思う事もありますが、それもその時のお互いの状態も左右するでしょうし、仕方がないと思えるようにもなりました。

とは言え、「エゴなのか、指導なのか」の問いはこれからも、持ち続ける事で冷静に対応できるように思います。
私が立ち戻る問いになっているように思いました。仕事の時には、この問いをしながら関わっていこうと思います。

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