解って欲しい時ほど、相手を解ろうとしていない

「どうして解ってくれないの」と思う時、相手の事を私は解ろうとしていないんですよね。
解ってもらうことに意識が向きすぎてしまうから。

昨日お話ししたように、ここ数年、本当になぜ体調が悪いのか、歳のせいかもね、とも言われて納得はしていたし、持病も発症してからは、そのせいかもと思っていました。
が、仕事は楽しくて、仕事をしている時には時間を忘れるほど没頭します。だから仕事があることに救われていましたが、コロナ禍で、時間が少しできたときに、自分の身体の痛みや辛さに意識が削がれて、休みながらゆっくり仕事をすることもありました。

思ったように仕事が進まない事で、自分への苛立ちや無能感を感じる事もあり、心身ともに疲れる事が増えていました。

そんな状況を知っている数少ない人達が、ずっと支えてくれていることには感謝ですが、それでも精一杯な状態なんだよ、という事を解ってくれなくて、本当に「どうして解ってくれないの」と、思っていた事もあります。当たるのも嫌で距離を置きたいのに、それさえ「わがままだ」と言われると、「動くのも辛いんです」と泣きたくなる事も多々・・・。

が、少しだけ解ってもらえることがあると、有難くて、気持ちのゆとりも持てて、優しくなれる。本当に勝手ですね。
聖人君子でもないので、自分で精いっぱいの時には周りは見えづらくなるんですね。
気持ちのゆとりは必要だなと思うのですが、気持ちのゆとりなんて持てないよ、と思ってしまっていたのです。

仕事の時には、その前に瞑想をかなり長時間して、気持ちをフラットにしてから、再度気合を入れる。すると痛みも辛さも感じなくなって、集中できる。その様子を知ってしまうと、また「平気じゃん」と言われる。
近い人には解ってほしい。それしかなかった気がします。

が、昨日お話しした状態を抜け出すと、「私は解ろうとしていたのか」と思うわけです。頭で解っていても、言動がついていきません、という時もありましたが、多くは相手を解ろうとしようとも思えてなかったように思います。反省しかないです。

敢えて、ここに反省の意味も含めて書いておこうと思いました。
相手を解ろうとしても、少しの間(もしかしたら数年)のブランクがあるので、解ろうとしても勘違いも発生するのかもしれませんが、そのことに気づけたことで、今、周りを見られるゆとりがあるのか、もしっかり気にしていきたいなと思いました。

仕事の少なめになっていたコロナ禍に重なってよかったな、ではなく、きっとこの時期だから起こったことだったのでしょう。
先を見て仕事をしている私としては、これから仕事が増える予定が見えています。
だからこそ、気持ち的なゆとりも持てるようになった今、近くの人達を今のうちにしっかり観られるようにしておきたいなと思います。

解ってよ!と思う時ほど、気を付けよう、という事も近い人達に対して体験できて、仕事に影響が出る前で良かったです。
解ってよ!と心の中の声が聞こえたら、「私はその人達を解ろうとしているの」と一度立ち止まり、その場に応じて相手を知ろうとしていこうと思います。

自責の念をこめて。。。

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