私は私のために話してしまっていたのだろうか

先週末に、勉強会に参加しました。
その時の講師が早口で、しかも情報量が多いんです。けれども、学ぼうと思って参加しているから、「見逃したくない。聞き逃したくない」と言う思いがあったのでしょう。数時間の講座が、あっという間に終了しました。

どんどん質問する方もいらっしゃるのですが、私は片耳が聞こえづらくなってしまってからは、二つ以上の事を同時にすることが苦手になってしまって、聴くか、メモを取るか、資料を見るか、に集中していると、理解が追い付かなくて、質問すらできないでした。
けれども、後からちゃんとメモを見て、自分なりに思い浮かべて学びへと定着させようとすると、直ぐだからか結構覚えていて、学べている感覚が残りました。そこから、「どう活かすのか」を考えて、早速試し始めているのですが、結構視点が変わって面白い。

強いて言えば、面白いということを共有する相手が居ない事は淋しいですが、講師としても学ばせていただいた気がします。

それは、私自身が、参加者を理解したい、私も理解してほしい、と思いながら話して居るんだと言うことでした。
理解し合いたいという無意識の目的があるために、話がゆっくりになってしまうのです。

スピードが速くて、その場で追いつけなくても、後から学んでいる体験もしているのに、私は「その場で理解し合いたい」という思いを押し付けていたのではないか。と。

その場の参加者にもよるのかもしれませんし、主体的に参加しているかどうかによっても違うのかもしれません。
けれども、明らかに、そうした選択肢すら私は見失っていたように思います。

今日から研修シーズンに入ります。
緊急事態宣言も解除され、緩めてはいけないとは言われながらも、効果を考えると対面で行いたいと仰る所もあり、リモートも対面も混在での研修シーズンです。

また新しい出会いや学びを私自身も体験をしていくのですが、見失っていた選択肢も入れて、関わり方のカスタマイズもしていこうと思いました。

そして、その体験から、またいろいろな学びを得て、変化し続けて行きたいと思います。

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