すっきりすることが大切なのではない

以前、研修を受けていて感じたことがあります。それは「すっきりする事」「納得すること」が大切なわけではないんだなという事でした。

どういう事かと言いますと、研修ですっきりしないことがあって、悶々として帰ったことがありました。すると、その後も気になって、事ある毎に思い出すのです。そして、体験を重ねているうちに「あっ」って思うことがあります。その時の感動の大きさと、理解の深さは言葉では言い尽くせません。

ところが、悶々として研修の中で質問をし、応えてもらえた時の事って、「なるほど!使ってみよ」と思うものの、イマイチ使いきれてないことがあるのです。

資格試験などでもそうです。
私は、お恥ずかしい事ですが、初回で合格することって少ないです。体験をしていて、そのことの理解のために試験を受ける時は初回挑戦で合格することもありますが、これから知識として学ぶという事に関しては、イマイチ理解ができていないのです。きっと時間がかかるタイプなんでしょうね。

そして諦めない私は二回目を受けてみると、合格する。でも、合格した時に喜ぶ前に、初回と何が違っていたのかと考えるようにしていました。自分の中では何も違わないように思えても、違いがあるから合格したとしたら、何が違ったんだろう?
それが解った時に、初めて私の中での「合格」になっているように感じます。

自分の成長も見えますし、何より理解が深まる感覚があります。
私の場合、暗記してというものを試験で受ける事は少ないので、多くが人と面会し、人に判断してもらう段階で合格などが決まる場合が多いのです。
そうなると、相手の基準も明確になりますし、何が違うのかを比べられるのは、すごく悶々としますが、解った時には教える時があっても、非常に役に立つと感じています。

よく、「その場ですっきりしたい」と思うのですが、これってなぜなのでしょうね。

今でもこの答えは見つかっていませんが、もんもんとするのも良いものだと思えてからは、自分と会う人達にも、そのすっきりしない感覚が残っていても、次に会えるのであれば、考えてもらうようにしています。
すっきりしない状態も、ずっと意識するきっかけや、深く感じられる体験に繋がると信じているからです。

部下にも同じです。
部下にも「なんで教えてくれないんですか」と言われた事もありますが、期限つきで考えてもらう事は多々有りました。辛かっただろうなと思います。けれども、その部下達は、今、私が居なくても、しっかりやってくれています。考える力も理解度も大きいからでしょう。

また戻る問いですが、なぜ教える側はすっきりさせたくなるのでしょう。どうして、教わる側はその場ですっきりしたくなるのでしょう。
この問いを一緒に残してみようと思います。

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