当たり前って私が決めていただけ

昨日(2011年9月18日)は、実家に父の顔を見に行ったのですが、その時に「当たり前」ってただ自分が決めていただけなんだなと衝撃を受けたことがありました。

それは、父が私の事を思い出せなかったのです。名前も娘である事も。
癌細胞が脳を犯し、動きづらくなってしまうだけではなく、治療の際に記憶がなくなってしまうこともあると言われていた時がありました。その後に治療は成功し父は今、既に再発から5年近く元気で居ます。しかし、言われていた後遺症もたまに発生し、治療後すぐは私の事を「先生」と呼んでいました。
その後、落ち着くとしっかり私の事も思い出してくれて、私が父に会いに行くと、満面の笑みで迎えてくれました。

しかし、昨日は「こんにちは」と声をかけると、元気に「こんにちは」と答えてくれた事に違和感があり、いつものように「おう」っていう返事じゃないんですよね。
そこで、「私、誰だかわかる?」と聞くと、寝たふり。(都合の悪い時は寝たふりをするのです)
母が「長女、次女、三女のどれでしょうか?」と重ねると、更に寝たふり。

どうやら私がわからないらしい。

普通に振舞っては居たけれど、もう治ったから「当然、私の事はわかる」と思っていたのに、父が私を、しかも満面の笑みで迎えてくれるはずの父が、「こんにちは」と他人行儀に返事をしたのです。
ショックでした。
けれども、このショックは、父が「私を笑顔で迎えてくれるのが当たり前」「私を父が忘れるはずがない」と思っていた私の勝手な期待に答えてもらえなかったことへのショックだったのです。
勝手な話ですよね。

ただ、考えてみると、こうした期待した通りにならない事を「相手が期待に答えてくれない」と相手のせいにしてしまっていることっていっぱいあるような気がしませんか。私だけなのかな。
「期待」という言葉にすると、ピンとこないかもしれませんが、「当たり前」だと思った事が、そのとおりでないと、焦って、そのとおりにしようとしたり、なぜあたり前の通りにならないのかと感情が動く事ってありませんか。

私が小さい頃に父に「俺の言った通りにしろ!」と言われた事に対し、私は「私はお父さんのおもちゃでもロボットでもない!期待通りになると思ったら大間違いだと思う。私だって自分の思うことはあるんだから、聞けない事だってあるんだよ!」と1回だけ、逆らったことがあります。
これは意思がある事だから、お互いが違うという事を認識すればいいと今でも思っていました。
けれども、意思とは関係なく、当たり前だと思っていた事がそうでないと、どうしていいのか反応に困ってしまいました。でも、この父との小さい頃の言葉を思い出したのは、きっと意思があってもなくても、「当たり前」なんてないんだなという事を教えてくれるためだったのかもしれません。

母も妹も「覚えている時も忘れちゃう時もあるから、今日は忘れた日なんだわ」と私を慰めてくれたのですが、やはり寂しかったです。父の記憶のある時に、いっぱい会っておきたいと思いました。

私が決めていただけの「当たり前」
目の当たりにして、改めて知りました。こんなに「有難い」という言葉の意味が深いなんて。普通に見えることが、普通だと思えるほど続いていることの「あり難さ」
勝手に決めていた事で、慢心していることも、時に縛られていることもあるのかもしれない。けれど、それも違うんですよね。父が言葉以外で教えてくれたことを、大切にしたいと思います。

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