退路を断つ時も必要なのかも

先日、Facebookにも書いたのですが、「私は失敗から学ぶタイプです。でも、失敗したくないから、理由を作って遠退けていました。でも、挑戦します。失敗するので宜しくお願いします。」と宣言しました。
正直、凄く勇気が要りましたが、言ってよかったと思っています。

学んだのは、「退路を断つことも大切なんだな」ということです。

宣言した時のように、最初はどんな事でも体当たりできるし、失敗しても、改善していけば良いと思っていました。

しかし、その道のプロだよね!と言われるようになってくると、自分でも気づかない内に、「失敗できない」という思い込みが生まれてきていたように思います。
だから、失敗すると解っている事には、出来る限り「あ~だ、こ~だ」と理由を付けて、やらなくても済むようにしていたように思います。

単に、失敗するのが怖いんです。
「その程度だったのね」と言われる事が怖いんです。
「挑戦してみようよ」と、周りの背中は押している自分が、情けないほど、その分野には臆病になっていたのです。

それは解っていても、一歩が踏み出せなかったのだけれど、「踏み出しなさい」と指示を頂いた時に、やっと重い腰が上がりました。
でも、やらされるからやる、ってのは、後から駄目だった時に人のせいにしてしまうだろうなと思い、宣言にいたりました。
けれども、そこにも私なりの防御線を張っているわけです。「一回は失敗するからね。」と。

「一回で何とかする」とまでは言い切れない自分が居たけれど、それでも、自分なりには「進むしかない状況が出来上がった。自分の意思で前に進むんだ、という状況ができた。」とプレッシャーと、緊張。そして、ワクワク感が同時に交錯しながらやってくる感覚を味わいました。

仕事でも、悩んで進まない理由を探している時に、「ツベコベ言ってないで、やってみろよ!先のことはそれから考えろ!」と、企業に勤め始めた頃にはよく言われていました。
けれども、それから失敗を恐れず、ドンドンやれるようになっていたんですよね。

そんな私が、「余計なプライド」を持ってしまった事で、踏み出せない領域を持っていました。

「余計なプライド」というよりも、「私はこうであらねばならない」という「理想の私」を創りあげすぎてしまったのでしょう。
それを崩すのは、自分の事ながら、簡単に見えてそうではなかったです。
だから、機会をいただき、逃げる選択もできたのだけれど、逃げずにぶつかってみる宣言をしたことで、退路を断ってみました。
「理想の私」を崩す宣言なのかもしれません。

それでも「理想の私」を守りたければ、失敗しないように頑張るのでしょうし、今の私は、理想が崩れてみても、また作っちゃうんだから大丈夫と思えるように徐々になりつつあります。

必死にやらない理由を探してみても、やると決める時には、退路を断った方が、勢いはつくものですね。
そして、知らないうちに作り上げている「理想の私のイメージ」があることを知っていないと、いつまで経っても、踏み出せないのかもしれませんね。

今回、機会をいただいたので、前に進んでみようと思います。
そう思った途端に、もう一つ、後回しにしていた事も思い出し、取組中です。

逃げている事って、逃げ道をさがしているだけで、意思としては「やらない」と決めていたり、「恐怖」から逃げているだけなのかもしれませんね。

あなたが、逃げていること、避けている事はどんな事ですか。
それによって、何を守っているのですか。

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