よく亡くなった親戚を思い出します。本当に周りのために必死になれる人でした。
でも話していると、聞いている方が迷子になる事がありました。昔の私に似ているからだったと思います。
「みんなの役に立ちたい」「みんなが求めているからする」「〇〇さんに頼まれたからやる」
どれも、周りの人達の役に立ちたくて・・・。
私もそう思っていたし、そう動いていました。今でも気づかない内にそうしてしまっています。
が、聞いている人からすると、「どう役に立ちたいのか」「みんなって誰?」「役に立ちたいのは解るけど、何をして役に立とうとしているの?」と思っちゃうんです。
私も人の役に立ちたいから、二人で話していると、相手が望んでいる事の役に立ちたいのに、望んでいる事が見えないわけです。
そうなると、私はいったい何をしたらいいのか混乱しちゃうんです。真意さえ見えづらくなってしまうのです。
二人のその洗濯機を二人でぐるぐる回り合っているのではと思う探り合いは答えが出ず、他の人の役に立つことをしようか、と目を向けて終わっていました。
その親戚もいつしか「こうしたい」「こういうことで役に立ちたい」と言っていたのに、志半ばでこの世を去りました。今でも思います。その人は幸せだったのだろうか。
自分を重ねてしまう私が居ます。私が今幸せと感じられているから、その親戚もきっと幸せな日々はあったのだろうなあ、と。
誰かの役に立つ、の誰かが、「みんな」だと、思いは大きいけれど、正直無理なんですよね。そのことを私も知ってから、「こういう人達」のために、私はこうしたい、と考えられるようになってきました。
貢献したいと思う人達こそ、誰に、何をしたいのか、を絞ってみていただきたいと私は思います。
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