発した言葉への責任とは

何だか毎度毎度同じ事を思いながらも、その度に自分に言い聞かせている言葉があります。それは「自分が言ったんだよな」という事。発した言葉に自分自身でめげる時もあります。そのたびに自分自身に対して発している言葉なのです。自分の偏った捉え方かもしれませんが、「発した言葉=宣言=約束」という方程式が自分の中にあるような気がします。

先週の事です。友人の身内が亡くなられて、急遽4回コースの2回目だけのピンチヒッターをお願いされました。たぶん今は自分の追われている仕事で手一杯だろうと自分でわかっていたのですが、事情が事情だし、「断ったらこの人はこの先もピンチヒッターを探し続けなければならないのだろうな。ご身内が亡くなって、それどころではないだろうに・・・」と思ってしまったために、「いいよ」と受けてしまいました。

ところが、蓋を開けてみると、「実は準備も何もしてないんだよ。」と言うのです。先に言われていたら断っていたでしょう。でも、後出しだったので、「受けた事をやるにはどうするか」を考えて、1回目の資料を送ってもらいました。でも、何せ毎日研修続きだった私には、準備の時間はそれほど取ることができません。資料も片手落ちで、結局全体を作らないと2回目の運営ができない状態だったのです。

受講者には関係ないことなので、やるだけやろうと思っているのだけれど、1ヶ月前から「こういう事があるかも・・・」と4回コースの相談にものっていたのに、なぜ何も準備してないんだ?と苛立ちさえ覚えました。

一応、何でも言い合える友人なので、そんな場合では無いだろうと思ったけれど、一言言いわないと気がすまず「なんで以前から判っていた事なのに、準備が全くされてないわけ?私は何のために相談にのってきたの?参加者には関係ないから、満足していただけるものを提供するために準備はするけど、オカシイでしょ?!」と言いました。言えばすっきりするのは判っていたし、言われた人も一言言わずには居られなかったんだなと判っていたので、それで私の感情も収まったのですが、最後の一言が耳に残ってしまいました。

「だって、自分で受けたんでしょ。俺が同じ立場だったら絶対に受けないもん。」

正直がっかりでした。
確かに私が受けました。でも、何も準備されてないってのは最初から聞いていたわけじゃないけどね・・・。という思いがしこりとして残りました。
ただ、発した感情は既に収まっていたし、相手にしている時間はなかったので、参加者のために頑張ろうと切り替えて、準備をし、何とか役目を果たしたのでした。

この件で、改めて「いいよって言ったのは私なんだよな」「感情をぶちまけて、嫌な気分になるきっかけを作ったのも私なんだよな」と思いました。発した言葉は、人に対する約束になるだけじゃなく、自分にちゃんと返ってくるんだなと思いました。

だからこそ、言葉を気をつけようではなく、言葉を発した事で、今回は色んな体験をさせてもらいました。

人にお仕事を依頼する時に、もしかしたら同じようにしている時ってなかったのかな。「お願いしたら後はあなたの責任でしょ。」って思っていることあるよな。逆の立場からすると、違うよな。という事も体感できました。
また、一部をお願いする時には全体像が見えないとかなり厳しいんだなという事も改めて知りました。

当たり前になっているお願いの仕方の見直しのきっかけにもなりましたし、任された事でかなり短期集中で勉強もしましたので、一つ二つと知識も濃くなった気がします。

来週、今回の体験をさせてくれた人が、私と同じ思いをしなくて済むようにするところまでが私の責任なんだと思い、昨日の引継ぎも昨日のうちに済ませました。

発する言葉をためらうのではなく、発した言葉に責任を持つということができる言葉の使い方をしていけたらなと思いました。
発した以上は私のした約束。
その事をこれからも気をつけていきたいと思います。沢山の勉強をさせてもらえた事に感謝です。
終わってしまえば、こんな気持になれるんですね。終わった後にこうしてここに書いている言葉にも責任をもたなくちゃね。

そんな思いです。
今日は自分で今日までにやりますって発した言葉がいっぱいあるので、この自分への約束を守ります。
それが言葉を発した私の、相手への責任だから・・・。

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