見守る事と放任の間で

葛藤することがあります。ここは自主性に任せて見守るべきなのか、手を差し伸べるべきなのか。
これって、結局自分が我慢できるかどうかなんだと思う事も多々あります。何が正しいかなんて最初からないんですよね。

見守っていても、一向に何か動く気配がありません。気付いてもないのかしら?でも、しないとミスになったり、その人が可哀想なのではないかと、口を出してしまいたくなる上司の頃。そして子育て。

しかし、コーチングと出会って、「見守る」事と「放任」を少し区別できるようになりました。ただ遠くから見てるだけでなく、見ているよってメッセージは発するようになりました。良いときは認めてあげるようになりました。

私の問題は、このままではミスをすると分かっているときにどう接するのかということです。
会議などでは、思考の話しなので、信じて待てるようになりましたが、子供の教育の事、部下の仕事に対する間違いには声をかけようか迷います。

結局見つけたのは、部下には「今、何してるの?」「今日やることって何と何だったっけ?」などと聴くようにしました。間違っている事に関しては、「続けたらどうなりそう?」と聴いてみることもあります。
とにかく、何とか自分で考えてくれるように声をかけます。
それでも気付かないときは、ミスの穴埋めをどうするかの段取りをしておいて、体験してもらうゆとりもできるようになりました。

ただ、私は子供に関しては、どうもだめ親らしい。
たまに出張に行くために、居るときに接していたいという私の思いがあるから、どうしても甘くなるのですが、それだけではなく、私の中の期待も大きくなっているのだと知りました。
子供を尊重しているつもりで、ただ「放任」になってしまっているのではないかと指摘をされたのです。その指摘はあっている間違っているではなく、自分を見つめなおすきっかけになりました。

気付いてみたら、猫可愛がりで、全く娘には考えるかかわりを最近してなかったのです。そのためにちょっと大きな挫折を味わうことになりそうです。けれども、今度は「見ているよ」「ここに居るからね」という思いで見守っていようと思います。
具体的ではないのですが、あまりにも色々考えてしまう事がありすぎて、私自身が反省中。
こうして親も子供に、人の育て方や、人間力を育てられているのでしょうね。

人の育成は、自分のためにするものではないし、自分の思い通りの人間を育てるわけでもありません。
それだけに、我欲を脇において、相手の成長のために「見守る」ことが大切なのでしょうね。時に我慢なのかもしれません。近い存在であればあるだけ、我慢しすぎたり、自分がいい人で居たいために「放任」になってしまわないように気をつけたいものです。

あなたは、部下や子供を、誰のために「育てて」いるのでしょうか。
そして、どう関わっていくのが、その人のためなのでしょうか。
これからも、一緒に考えてみませんか。

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