テーマがないのではなく・・

少しの間休んでおりました。ご心配を下さった方にも感謝いたします。ありがとうございます。
再開です。

今回の主題なのですが、2週間ほど前に体験した事です。
テーマが「ない」のではないのだなあという発見です。

ブログなども同じですが、テーマが「ない」と表現される事はあるのではないでしょうか。問題解決のためには問題がないといけない、けれど「ない」と表現される方は多いと思います。

けれども、2週間前の体験として、「ない」ではないんだということです。

議事録をとってくれた人の表現が秀逸だったのです。

その方は、あるやりとりを議事録に起こしてくれたのですが、その場では「時間だけが決まっていて、テーマがない」けれど始まったのでした。
けれども、実際には「今、どうありたいのか」「どうであればよいのだろうか」「これからどうであればより良いのだろうか」など、在り方について話して居る内に、「だったら、こういう事が足りないよね」など結果的には、先を考えると言うよりは、「ありたい姿」をひたすら口にしている内に、見えていなかった「不足している物」が明確になってきたのです。

議事録はひたすらその場のやり取りに参加するのではなく、ただただ記録として文字起こしをしてくれているようでした。
そして、そのやりとりを最後に拝見したときに、その文字起こしが単なる一字一句書かれたものではなく、流れとやりとりの主題を記録してくれたものであることを知りました。

その表現の中に、何度もその場で出ていた「テーマがない」と言う言葉が、こう表現されていたのです。

「テーマの不在

「ない」=「無」ではなく「不在」と書かれていたのです。
思わず辞書で調べてしまいました。
不在とは、その場所や位置に居ないこと。類義語は留守。
つまり、無(=存在しない)わけではなく、あるけど、そこに居ないだけ。

思わず、「言葉のチョイスが素晴らしい!」と言ってしまいました。その方曰く、見えてないだけで、話して居る内に出てきたので、書き直しました、と。

語彙力も大切なんだなあと感じながら、その言葉に「そうかあ。色んな問題がない、テーマがない、と私達が表現している場面では、無いのではなく、不在なだけなんだあ」と感動しました。

私も、お休みしている間にテーマがないわけではなく、このことも早目に書きたかったほどなのですが、書ける場に居なかっただけなのです。

ついつい「ない」と表現してしまうことも、そう思うと、見えるようにしていくだけでも価値がある。
見えている問題だけを取り上げるのではなく、見えていない問題を見えるようにしていく過程が大切だなあと、深く感じる事ができました。

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