心のゆとりをどう生み出すのか

以前の職場で嫌と言う程体験した業務の負荷。これは悪い意味ではなく、自ら責任を持ってやろうと思うが故に、周りと協働できなかったのだろうと今は思います。
途中から任せる事、協働の意味も理解して、上手くバランスが取れるようになったつもりではいますが、後から考えても、あれだけの仕事をよく一人で請け負っていたなと思います。

そんな周りに任せる事もできない頃は、時間的ゆとりもないから、とにかく「ムダは事は省く」んだと思っていました。他愛ない雑談も本当にムダに思えて、人を寄せ付けない怖さもあったのではないでしょうか。

とは言え、部下と話す事は大切だと思うからこそ、少し雑談したり、昼食を一緒に取ろうと話したりもしました。
が、ある部下は「お昼は近いので帰ります」と頑なに断られました。パートさんだったので途中から来て途中で帰るから、朝や夕方にはお話しできず、業務の合間に話す程度でした。

それでも関係性は良かったと思っていたある日、ある出来事が起こり、彼女が引き起こした事とは言え、逆ギレされました。その内容が、私が上手く関係性を築けていない

、という事でした。
寝耳に水とはこういう事を言うのだろうとその時は思いました。

が、後から考えてみると、彼女のその思いを言動、態度から感じ取れていただろうか、と言うとそうではない。少しでも関係性に関して確認したことはあるかと言うと、遠慮もあり聞いていない。そもそも部下なのに私は何を遠慮していたのだろうか。それこそ私も彼女と同じではないだろうか。言いたい事さえ言えないなんて。年上の部下とは言え、もっと何か方法はあったのではないか。

彼女はその後、退職をしてしまったので、一段と取り返す事もできず、ずっと心に棘が刺さったままの気持ちで思い出す事があります。
もう少し彼女の様子に目を向ける「心のゆとり」があったなら。

それだけはないです。周りに仕事を任せられない。周りと一緒に補い合い高め合うような関係が築けなかったのは、まさに「ムダ」を排除して、業務と責任を果たそうとする事だけに終始してしまったから起こった事だと思います。

その後、私もライフイベントでの変化があり、みんなに任せる事ができるようになってみると、業務量が減るわけではないけれども、把握する物事も変化をし始め、何が無駄なのか、という概念が変わったように思います。そうなると同じ忙しさなのに、声をかけられた時の反応は明らかに優しくなったように思います。「心のゆとり」が生まれたと言うより、関係性を創ることの重要性に気づけたという方が正しいのかもしれません。

業務もあるので延々は聞けないです。短時間な時が多い。
けれども、短時間で相手に話したい事を話させてあげられるようにはなったように思います。
手を休めた分だけ、自分の仕事は滞るように見えますが、不思議とそれほど滞らないのです。自分が工夫をする事もありますが、他にも連携が取れる事で、「ここは私がするけれど、ここはさっきもらった知恵を活かそう」と思えたからでしょう。

「心のゆとり」は持とうとしてもなかなか持てるものではないのかもしれません。
けれども、意識から始まるとしたら、心のゆとりを持つのは何のためなのか、です。その目的のために、優先順位を少し変えてみることも、結果として「心のゆとり」に繋がる気がします。
あとは、早目早目に動く事。これが一番な気がします。

一人仕事が多い今は、誰かと協力しあってやりたいこともまずは自分でやってみないといけない事が多いです。思い通りに進まなくて、ギリギリになることはありますが、少しでも前倒しで、いつでも声のかけやすい私で居られるように、心のゆとりを持っていたいと思います。

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