なんで直ぐに人のせいにしちゃうんだろう

きっと私達は、本当に自分が大切なのでしょうね。だから、たくさん自分自身を守る術(すべ)を持っているのでしょう。
その一つが、「人のせいにすること」ではないかと私は考えています。

「あの人がこうだから、こんな風になっちゃう。どうしたらあの人を変えられるだろうか。」
何てことを議論していた事もたくさんありました。

が、大人になってリーダーをするようになると、「人は変わらない」と思うわけです。が、それは「価値観などは変わりづらい」の間違いだったのだと知る経験もしてきました。

単純な事で言うと、「挨拶をしてくれない人」=「私を嫌いな人」だから、好きになってほしいというのは変わらない。と諦めたら終わりだけれど、それでも「眼を見て挨拶をしてみる」ことで、「嫌いなままかもしれないけれど、挨拶は返してくれる」ようになったとき、勝手に近づけた気がしました。そして、繰り返しているうちに、「嫌われていたわけでもなく、ただ誰にも小さな声で挨拶をした内気な人なだけ」で、相手もそれに気づいて、少しだけ大きな声で相手から挨拶をしてくれるようになった。
お互いに誤解もあったのかもしれないし、本当はまだ好きじゃないと思われているかもしれないけれど、挨拶は問題なくできていて、私も苦痛は感じていない。というような体験が、小さいけれど、考え方を変えてくれるような出来事だったかもしれません。

そう思うと、結局「相手が私を嫌いだから」と思うと、私自身も相手を遠ざけるような行動をして、「人」というくくりにすることで、通常の仕事すらしづらくなってしまいます。けれど、「挨拶が交わせない」だけが困った事だとしたら、ほかの部分でうまくいかないことばかりかと言うとそうではなく、「人」とは言い切れない事もあるのに、自分が必要以上に傷つかなくても良いように、「私を嫌っている人」とくくっていた気がします。

価値観とか考えは変わらなくても、行動などは変えられるし、気持ちと関係ない部分でやりとりはできるはず。だとしたら、「人」として括る事で、改善のチャンスもなくしているのではないかと思う事があります。

かといって失敗もあって、その経験があるからこそ、近づこうとしてみたら、本当にたくさんの言葉の攻撃を受けて、自分自身が耐えられなくなってしまった事もありました。
「そもそもその人を介して、やらなくちゃいけないことなの?」と言われた時に、「あれ?違う選択肢もあったなあ」と思い、少し距離を置く事ができました。不思議なもので距離を置き始めたら、相手が話しかけてくれるようになって、私の距離感が相手にマッチしていなかったのでしょうね。結局、今はたまに普通に話す事もできていて、あのころは何だったんだろう?と思う事さえあるほどです。

「人」とくくる事はいつでもできるけれども、培っていかなければならない関係性があるのであれば、「人」だけで括ってしまうのは、勿体ないように思います。
少し割り切って、行動で。しかも自分から変えてみることで、結果相手の反応が変わる事もあるのではないでしょうか。

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