ほとんどがクリアできる問題

私には持病がある話は何度かさせていただいていますが、あっけらかんとした実母と話す時があります。
私「ほんと、いくつになっても心配ばっかりかけてごめん」
母「何を言ってるの。皆のおかげで産まれただけでも充分でしょ。それでここまで生きているだけで恩返しだわ。」
たまに、病気のせいもあって落ち込みが激しくなる事があるのですが、そのたびに救われる言葉です。

そして、自分に記憶がない所での命にかかわる体験がある私以上に、その場を体験した母は強い。
そう思っていたのに、輪廻転生とはよく言ったもので、娘もまた危ない状態から救ってもらいました。私ほどの切迫感はないにも関わらず、私はかなり「ああ、産まれてくれてありがとう」と思った事を先週、娘の誕生日があったので一段と思いました。

不思議なもので、そうした体験をしているせいか、自分に対しては、周りで起こる色んな事のほとんどが、クリアできる問題だと感じてしまいます。思いつめず、けれども何ともならないことじゃないはずだと思えてしまうのは、自分の生い立ちものそのもののインパクトからかもしれません。

やるだけやって無理ならば、「ああ、そこは拘ることじゃないのかも。他のアプローチもあるかも。」などなど、前向きにとらえ直すこともできるのは有難い事です。
持病も辛い時期もありますが、「でも生きている」「生きているから痛い」と思うと、なぜか笑えてくる。喜びにさえ感じる、と言う何とも前向き。

子供の事で色々悩んでも、行きつくところは「でも、子供も産まれてくれた。それだけで充分。」

問題を軽やかに考える事で、ほとんどクリアできる問題に見えてくるから不思議です。
もちろん、その状況に置かれるときには、凄く悩みます。けれども、どこかで「何とかなる」「ああ、悩めるのも楽しい」と思えてしまうのです。生きているからできる事は、どんな事でも楽しもうと思えています。

誰でもがそう思えるわけじゃないことは当然です。
こう言っている私でも、やはり落ち込む時には落ち込みますし。
が、少しでも誰かの背中を支えるきっかけになればと思い、何度となく書かせてもらっています。
その時々で表現は違いますが、子供が誕生日を迎えたからこそ、改めて感じたこのタイミングで話させていただきました。

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