事実をどう捉えるのか

起こった事実は変わらなくても、どう捉えるのかはその人の体験や考え方次第です。

コロナ禍で本当に突然仕事が延期或いは中止になることもこの2年間で本当にたくさんありました。反対にコロナ禍でもやるとなればなったで、「この時期にやってしまってよいのだろうか」と自問自答もしながら・・・。
ただ、運が良かったのは、この時期に娘の進学の相談にじっくりのれたり、自分自身の体調のケアも徹底してできたりしました。
今も、まん延防止措置のお陰で中止や延期などになったお仕事だったはずの時間に、娘の習い事の送迎や引っ越し準備などをする時間にできたり、確定申告の申請準備をゆとりを持ってできています。

事実は変わらないけれど、捉え方次第。

きっとこの言葉が私を前向きにしてくれているように感じます。

本当にいつだったか忘れるほど前に、「smilecoachさんは、〇〇な人だよね」と思ってもない視点で指摘されて、衝撃を受けた事が何度かありました。「え~、そんな風に見えるのは嫌だなあ」と思った私は、必死にそう見えないようにした時期があります。

が、結局、他の人から「最近smilecoachさんらしくないね。△△(先ほどの〇〇を良い捉え方をした言葉)が発揮されてないみたい」と言われたんです。

〇〇と捉えるのか、△△と捉えるのか、人によって違うのに、私自身の個性でもある部分を本当に私は失う鍛錬を続けるのだろうか。ふと考えてみると、私は△△としてとらえたいと思い、変えようとすることを止めました。

後から思うとなのですが、〇〇と言った人は、きっと〇〇な人が周りに居たのか、自分自身がそこを意識しているのでしょう。

そんな経験をしてからは、自分自身が人に何かを伝える時にも同じように思うようになりました。
「ああ、××だなあ」と私が感じたとしたら、私は××を意識しているんだなあと。その上で、相手に伝えるのかどうかは、その場の役割や状況次第で発するか発しないか選択するようになりました。

とは言え、家族や本当に信頼できる人には、捉え方も含め知ってほしいし、私も知りたいので、どんな事でも、本来言いづらいことでも、伝え合うようにしています。
たまには、心に棘のように私の心に刺さることも言われますが、結局、言われてその捉え方に賛同して変えるのか、あなたはそう捉えたのねと流すのかは私が選ぶんですよね。

事実は何も変わっていないのだから。

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