閉じこもってしまう人のことを理解しようとしてみた

お家に閉じこもってしまう人のことを理解しようとしてみたことがあります。

どうしても、「出てこないのが悪」という思いで接してしまうと、更に頑なになってしまいます。
「それでもいいんだよ」と言うのは、甘えさせているのではないかと感じることもありますが、出られない人の思いを聞いた時、「甘えさせている自分だと思われたくない」というエゴだけだったのではないかと考えさせられたのです。

閉じこもってしまう人は、本当に心が弱いだけなのか。
本当に引っ張り出せば、なんとかなるのだろうか。
正直、今でも答えが見つかっているわけではないですが、「出てこないことが悪」という考え方だけは、偏っていたなと思いました。

閉じこもった人と話をした時、「出られるならば、とっくに出ているよ。自分でもどうして良いかわからないほど動けない。」と話してくれたのです。怒りにも似た大きな声で。辛さなのかもしれません。

「出てくる」ことがゴールではない。
「出てきて、どうしてほしいのか。出たらどうしたいのか。」です。
何がきっかけで、動くことが怖くなったのか。何が辛いのか。
本当はどうしたいのか。

何もわからないままなのに、頭ごなしに「出てこないことが悪」と決めてしまっていることに関わる側も気づかないと、本音は聞こえてこない。
理解しようと聞いているうちに、少なからず自分にもあった思いだなあと感じることがありました。

でも、乗り越えられた私が、乗り越えられない相手をまた無意識に責めていこうとすることがあります。
自分と違う人と接する時には、相手を理解しようとすればするほど、同時に自分と向き合う時間も多くなることを感じました。

そして、何よりも「閉じこもりたいから閉じこもった人は居ないんだろうな」ということには気づかせていただきました。

今だから思うのは、時の流れに身を委ねていては、どんどん動くためのエネルギーは必要になってしまうということ。
ちょっとでも早めに、理解しようとして、少し休んで、また一緒に解決策を探ろうとすること自体が必要なんだろうな。
その時には、自分自身とも向き合うことになることをしっかり覚悟しておかないといけないなと私自身は感じています。

まだまだ全て理解できたわけでもなければ、これからそうした場面に接することもあると思いますが、その時には少しでも「理解しようとしてみること」はしたいと思います。
違う人間だから、全ては理解できないからこそ、少しでも知ろうとしながら・・・。

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