ミトメル

認めるって、「観・留める」かなあと、いつも思います。
褒めることではなく、無視しない事。相手の存在を、言動を、まずは観察したら、「気に留める」ことではないかと。

家族であれ、上司であれ、部下であれ、友達であれ、近ければ近い人ほど、「つー」と言ったら「かー」と言われるほど、解ると言うのは、素敵な事だけれど、それだけに決めつけていることってたくさんあるなあと思います。

お恥ずかしながら、私自身もたくさんの失敗があります。

「以前こういう時は●●だったから、今回も同じだろう」と決めつけてしまうことが多々ありました。
けれど、状況をしっかり聴いていた人から、「××だったらしいよ」と聞くと、「ああ、もっとちゃんと聞いていたら良かった」「なんで、あそこでシャットアウトしちゃったんだろう」と後悔することもありました。

自分を守るわけではないですが、忙しい時ほど、さっと判断して、次のやることをやりたい。だから、「じっくり話を聞いて」と言われても聞けない状態に私自身が陥っている時には、聞けないんです。
反省しても、後悔しても、次に同じことが起こったら聞いてあげたいと思っても、同じことを繰り返して、反対に「smilecoachさんは聞いてくれない人」と、私自身も決めつけられたことも多かったように思います。

ただ、繰り返している内に、本当に自分自身が情けなくなってきました。「優しくないなあ」「自分の事しか考えてないなあ」「何がこれでリーダーなんだか」と自分を責めました。周りにイラつく事はほぼなく、自分自身に対する苛立ちが結局周りにも伝わって、直属の上司に「あなたは良くやっているよ。人の数倍の仕事をしているんだから、仕方ないよ。」とフォローされました。それがまた情けなく、「人の数倍とも思ってないし、仮にそうだったとしても、それを理由に周りの話を聞いてあげられないんじゃ、最低だ!」と。

けれど、どこかその上司の言葉に救われている私も居て、行き場を失う事はなく、自分自身をどう変えていったらいいんだろうかと悩みました。
結局、私自身も変わろうともがいているのに、周りの変わろうとしている姿を、私は果たして見落としてないだろうか。

そう思ってから、周りに対する見方が変わりました。
時間がなければ時間がないなりに聞いてみようと思いました。
「以前の私ならこう言っていただろうけれど、今の私ならどう言うか」と、自分を敢えて変わったと仮定して、対応してみました。

最初はきっとぎこちなかったと思います。
けれども、徐々に自然にできるようになってきました。
でも、受け止める部下や上司の方が、懐疑心は強く、「裏があるんじゃないか」と思われた時期もあったように思います。

今でも忘れられないのは、辞めてしまう部下に「まったく仕事以外の話しをする時間もなかった。周りの人との方が私はたくさん話せたと思います」と言われた時です。最初は本当に仕事の話しかしてなくて、もっと部下の事を知りたいと思って、途中からではありますが、何度も「お昼一緒に食べようよ」と誘いましたが、ずっと断られました。プライベートな話をしても「ごめんなさい、間に合わなくなっちゃうんで」と言われて、全く話してもらえませんでした。きっとそれまでに嫌われちゃったんでしょうね。だから、途中から変わろうとした私は全然受け止めてもらえず、辞める事になったときに言われた言葉が、過去の私に対する評価のままだったのが、悔しくて仕方なかったです。

「今更だけど」と変わろうとした自分の事を話しをしたら、「その経緯をちゃんと話してくれないと、ただ裏があるようにしか見えませんでした。」と。そうですよね。
言われてから、そういえば、「そのうち解ってくれる」と思って、頑張ってみても、なかなか見てもらえるわけじゃないよな、と思いました。

反対に言ったら、部下がなかなかアピールできないとしたら、そこはちゃんと観察して、気づいていくのも上司の仕事だよなと、立場を変えてみたり、自分が思うことは伝えなくちゃ伝わらないんだなと学ばせていただいた事を覚えています。

彼女に伝えられたのは、「今までごめんなさい。話してくれてありがとう」でした。
彼女も「もっと早くに話せていたら、私は辞めなかったかもしれませんし、もしかしたら違う理由で辞めていたかもしれません。でも、話せていたら違っていたでしょうね。」と。

自己啓発のお話しや本が好きな、年上の部下。
自分の中で、解っているつもりでいた事が、結局、彼女を観て、気に留める事をしづらくなったわけで、忙しさのせいでもなかった事に気づいたのは、彼女が辞めてしまうと決まってからの事でした。

その時も直属の上司は、「あなたのせいじゃない。あなたは良くやっている。」とタイミングよく言ってくれたんです。凹んでいる私に気づいて、上司なりの言葉かけだったんだと思います。私をしっかり観て、気づいて、声をかけてくれたんだと思います。

私は良い上司に恵まれ、成長のきっかけを部下にももらい、変わってこられました。
そんな私を「変わった」とみとめて、共に変わってきた人達も居ます。それが誇りでもありましたが、今、またふと気づくと次のステージで「成長した相手」を「こう変わった」と固定化してみている時があることにふと気づきます。
ずっと変わり続けるのに、なぜ固定化しようとするんだろうか。

とりあえず、気づいたんだから、今からまた「観、留める」を再開すればよいかな。
何度繰り返すか解りませんが、そのたびに、この私なりの原点に戻ろうと思います。

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