期待されることとしたいことの融合

あれから何十年経っているのだろうか。
最近、たまに高校生の頃を思い出します。自分がした決断の中でも大きな決断をした時期です。
私の中にまだ後悔があるのでしょうか。

もう何十年も経ち、これで良かったんだ、今が幸せだと感じられる事もたくさんあるのに、決断の頃を思い出します。その当時に起こった出来事、親との会話、先生との会話。こんなにも鮮明に残っているんだと思うほど、思い出します。なぜなんだろう。

なぜなのかは解らないけれど、本当にここ10日間ほど、同じ頃を鮮明に思い出します。

けれど、ふと日曜の昼間に「あっ、後悔しているんだなあ」と思うことに行き当たりました。
それは二つ。

一つは、親友と親に一切相談しなかったこと。
多分、唯一相談できたのは担任の先生でした。本当に親身になってくださって、今思い出しても感謝しかありません。でも、親友も同じ進路を悩む時期だったから、相談しちゃ悪いよなあと思って相談しなかったんです。けど、それは反対で、同じ悩みを抱えているからこそ、相談しても良かったんじゃないかと思うのです。
親の事も絡んでいたから、親には一切相談できなかった。でも、本当に相談すべきだったのは親だったのではないか。

今、親になって、娘が違う思考をするので、親としてできるのは相談をうけること。けれども、娘は本当に迷った時には親に。自分で解決したいけれど迷う時には友達に。と相談する人が居る。その安心感と、相談してもらえる事の嬉しさを感じられたからこそ、今更ながら、相談してくれないことへの寂しさを感じさせてしまっていたのではないかと後悔がありました。

何度となく、親友も親も「何か悩んでるなら聞くよ」と言ってくれていたのに、「大丈夫だよ」と相談しなかった。申し訳ないなと思う。

二つ目は、「周りの期待にどう応えようか」という視点で考えていて、「自分がどうしたいのか」を真剣に考えられなかった事。
今もその癖が抜けていない事に、コーチングを受けて気づきました。
「それもあなたらしさだろうけれど、それで本当にいいの?もっと自分がしたいことで、周りの期待に応えられる方法だってあるんじゃないの」と言われた時に、ハッとしました。

「周りの期待に応える事」と「自分がしたいこと」は相反すると勝手に決めて、どちらかを選ぼうとして、周りの期待に応える事を私は選びました。あの時以来、ずっと私は「周りの期待に応えるために」と考え続けるようになっていたように思います。

とは言え、過去に戻る事はできず、今からその選択ができるようになる事が一番だと思いながらも、ただただ親として体験したから、ってだけでは、また「子どものため」と思い続けるだろうし、「周りの期待に応えるための選択」をし続けているのだと思います。
ここで改めて、高校の頃を思い出して、「何を後悔したんだろうか」と考えた事で、やっと過去の自分に「頑張ったね。これからは他の選択もできるね。」と言ってあげられる気がします。

人のためなんて凄くおこがましい。でも、ずっと周りの人のために尽くしなさい、と親に教えられてきて、どこかで周りの人の期待に応えられる事でしか自分の喜びを感じられなかった自分に気づきました。結局、自分が認めてもらうためだったのだろうと。

お恥ずかしながら、今、改めて自分は何をしたいんだろう、と思うと、周りの人達が喜んでくれる事を外す事はできない。けれども、その方法がたくさんあるとしたら、私は何をして周りの人達に喜んでほしいのだろうか。
「期待されていることと、したいことの融合」
今、この歳になって、改めて考えさせられています。

高校の頃の私を思い出す事、昨日はありませんでした。
やっと私も、本当の意味での一歩を進む事ができたのかもしれません。何十年かかったんだろう。でも、遅いってことはないだろうから、今からの私に活かしていきたいと思います。

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