これはきっと私の問題なんだろうな

先日、娘と娘の友達との会話が電話の後ろから漏れてきた。どうやら責められている感じ。
でも、娘は一切そのことには触れない。けれど、わざわざかけてきた割には、話しづらそう。きっと私からかけたことにしているんだろうなと察して、「話しづらそうだから切るね」と電話を切りました。

その後のざわざわ感。

娘がいじめられているのではないか。
娘がかけてきたのに、話せないって、よほど泣きたいんじゃないか。
色々思うと、電話の向こう側に居る娘に何もしてあげられないもどかしさと、今何を抱えているのか、このまま見守っていてもいいのだろうかという葛藤が私の心をざわつかせました。

けれど、そもそも、私はなぜこんなに過剰反応しているのだろうか。
考えてみたら、私が中学の時にいじめられた経験があるから、耐えて、こらえて一人で泣いて、みんなの前では「それ以上やっても意味ないよ」と伝えたくて、強がっていました。結局、解決したわけではなく、我慢して乗り越えただけ。

だから、電話の後ろの会話が聴こえた時に、その記憶を勝手に私は娘に投影してしまったのだと思います。
本当はそういうことじゃないかもしれないし、ただただ周りに人が居て話しづらいだけかもしれない。にも関わらず、勝手に私が一人でネガティブに考えて、娘の心配を過剰にしているだけかも。

本当に駄目なら口にするはず。でも、まだ言わないうちは、私の声聞くだけでホッとするならそれでもいいか。と思い直しました。
結局は、娘に起こっている問題ではなく、私自身の解決してこなかった問題を、たまたま思い出して娘の問題だとすり替えただけ。
娘の問題は、ちゃんと聞かないとわからないし、言いたくない時期なら見守るしかない。娘の問題を娘が解決しなかったら、私みたいに何十年もひきずってしまうのかもしれません。

そう考えると、結構お節介の私は、私自身の問題を、相手の問題だと思って口出してきてしまったのかもしれないなと反省しました。
その人の問題は同じではないだろうし、その人が解決しないと意味がないだろうに。

そう考えている時に、昨日は私の誕生日だったので、きっと何かあったであろう娘から、0時をまわった瞬間にメールが来ました。
「Happy birthday^^
いつもなんかあったら察して一番に心配してくれてありがとう。
 たくさん迷惑かけたりしちゃってるけどこれからも見守ってください。」
どうしても、娘に何かあったと思っている私は、「それどころじゃないだろうに、こういう時に限って長いメールだし。」と娘のなんとか頑張ろうとしている姿が浮かんでしまい、涙が少しの間止まりませんでした。

「ありがとう。
 いつも見守ってるよ。
 頼りない母だけど、よろしくね。」
と返すと、「うん笑」と返ってきました。

娘なりになんとかしようとしている。
「見守って」というのは、「何とかして」ではない。
なんとかしようとしている娘を「見守る」んだよね。そう自分に言い聞かせ、日曜日はたっぷり娘と話をしました。

しっかり聞いてみると、やっぱり娘の問題と、私の問題の認識は違っていました。
「やっぱり私の問題だったかあ」と改めて感じましたし、娘のたくましさや成長を感じることができました。

誰の問題なのか。
問題と思っている私が居たら、まずそれは私自身の問題なんだなとこれからは思って、周りを「見守る」ようにしたいなと思います。

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