見えないスタンダードが拒むもの

これは個人にも企業にも家庭にも同じことが言えるんだなと分かったことについてです。自分の中の発見でしたし、その事によっての変化が大きな変化になっていく気がしたので、ここにとある企業で起こったことを書きます。

とある企業(以下、A社とします)は、これから何かを改善していこうという時には「コミュニケーションが必要だよね。まずコミュニケーションから始めよう」とか「まずは情報を共有するためにミーティングを開こう」「情報共有でLAN内に専用フォルダを持つようにして、いつでも誰でも閲覧できるようにしよう」などとアイデアがでてきます。しかし、情報は流すが共有に至ることはまだまだ少なく、一歩を踏み出したところで止まってしまいました。コミュニケーションに関しては、すぐにその根も絶えてしまいます。

「そもそもなんでこうなってしまうんだろう?」という時にでてきた言葉が「コミュニケーションは戦い」という言葉でした。コミュニケーションを率直にとろうと思うと、「感情をぶつけあって関係が崩れるのではないか。」という思いが戦うコミュニケーションから連想されて、結局我慢したほうが良いと口を噤んでしまっていたことが分かってきたのでした。しかも、誰もの共通言語のようでみんながうんうんとうなずいています。

「ああ、これがA社のスタンダードだったのかあ。戦いじゃ、戦いをわざわざ挑んでいくのには勇気もいるものね」

これが納得したコミュニケーションを阻むものだったのです。会社のスタンダードが邪魔をしていたのでした。

その後、このスタンダードについて「コミュニケーションって本当に戦いなのか」について少し話が交わされました。これが分かったことで、改善の糸口が見えてきたのでした。

これは、A社の例ですが、考えてみれば自分だって人から言われて、自分だけだったんだと思う事もありますし、最近テレビで番組化されている「県民性」だって、その地域でのスタンダードが本当はスタンダードじゃないことを知ると、その事が特徴やアピールポイントになることだってありますよね。

スタンダードがあるからこそ、個性が生まれたりもするのでしょうし、アピールポイントになるかもしれません。しかし、これも「みんなと同じスタンダードだと思っていたけれど違うんだあ」と気付いた時に初めて個性となる。しかし、この個性が良いばかりではなく、本人が気付けないことで反対に足をひっぱってしまうこともあるんだという事が良く分かりました。

昨日の朝、コーチと話していて自分の言葉になったものですが、これも話しているうちにどんどん意識化されていくのを感じました。

今まで個人に関しては「捉え方」などと言ってきた言葉なのかもしれませんが、企業や家庭、地域となると、慣習になってしまっているものが多く、捉え方というには表現に違和感があったのですが、「スタンダード」という言葉を使ってみてすっきりしました。言葉もそう。専門用語は社会でのスタンダードではなく、その企業様のスタンダードということもありえる。

何気に使っている言葉が、社会とは違う見方をするスタンダードを持っていることもある。だとすると、本人達は気付いていない。あえてその事に気付くだけでも、改善は進むんだということを感じました。これからもこの「その○○だけのスタンダード」を探してみたいと思います。そのためにも私自身も多くのスタンダードに触れたり、本を読んだりしていこうと改めて感じました。

あなたは、あなたに、そしてあなたの周りにどんなスタンダードを持っているのでしょうか。

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