言葉の重みは受け手が決める

自分にとって良い言葉も沢山頂いているのに、小さな小さな暴言に大きく反応してしまうことってありませんか。
私だけだったらすみません。

けれども、それらの言葉をどう扱うのか、受け取るのか、或いは聞き流すのかは、本来決められるはずなんですよね。

最近、感じるのは娘が発する「キモい」「◯◯(書くのもはばかられる言葉」などの言葉です。
その言葉自体が私に与えている衝撃は大したことはないのですが、そういう言葉を当たり前に使っている娘の在り方に反応している気がします。

きっとどこでも言っているわけではないと思います。
言っても良い人を見極めて発しているとは思いますが、あまりに当たり前に発することに対し、「いじめられた経験があるのだったら、その言葉の重みを知っているよね。」と反応してしまう私が居るのです。

これはもはや、娘の問題ではなく、私自身の問題という事なのかもしれません。
きっと娘もそのことで嫌な体験をしたら、その体験から学ぶのでしょうし・・・。

そして、自分の問題として捉えた時に、自分が親から「人に迷惑をかけるような事はするな」「人を助ける事はあっても、傷つけてはならない」と繰り返し聞かされた言葉が頭をよぎるのです。
きっとこの考えに反した事を、自分の娘がしてしまっている事に私は反応をしているのですよね。

私は、結局、親の言葉に影響を受けて考え方が身につき、子供の言葉に反応をしているのですから、何とも忙しい事です。

最近は、多少「うちで言っている分には、ストレス発散なのかも。場所や人を選んで言えているなら、それもまた良いのかな」と思えるようになりました。
とは言え、聞き流せる程ではないです。「ここだけなら、まあいいか。」と妥協しているだけです。
言葉でも散々傷ついてきた娘なら、他の場所や人には言わないだろうと、どこかで信じたいんです。でも、信じきれない私が居て、口癖になっているようだから、ポロッと出てしまうのではないかと気になってしまうのです。

そもそも、私と同じ意味の言葉として発しているのだろうか?
「それってどういう意味?」聞いてみると、全然重みが違う意味を伝えてくれました。使っている重みが違うのに、勝手に重いと受け止めていたのでした。

改めて、言葉の重みは、発した人の重みで伝わるのではなく、受け取る側が感じた重みなんだなと知りました。
そう思うと、親に教えられた「人を傷つけてはならない」という教えだって、私はそのつもりがなくても、相手が凄く傷ついてしまう事もあるのだろうな、と感じました。
娘となんら変わらないのかもしれません。

相手にどう言葉が伝わったのかは解りません。
小さな小さな言葉のつもりが、大きな意味を持つこともあれば、大きな意味のつもりで伝えたのに、軽く聞き流される事もあるかもしれません。
けれども、いづれにしても、私はその言葉に一喜一憂しながら、自分らしさを受け止めていくしかないのかなと思いました。

ただ、続けているのは、朝のリセットです。
何も考えず、ただ自分の呼吸を感じ、周りの空気を感じるような静かな時間を取るようになってから、そんなに言葉や前の日までの事に引っ張られる事は減りました。
言葉のない時間で、リセットしているのかもしれません。
人と関わることで、よくも悪くも反応しているのは自分だけれど、誰とも関わらず、言葉にも触れない時間が少しあるだけで、リセットされた気分になるのは今でも不思議です。

自分が発する言葉も丁寧にしていきたいものです。

今日も、その後の一言は「おはよう」から始まりました。
今日のあなたはどんな一言から始まりましたか。

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