解ってくれなくてもいい

相手の事を理解しようとする事が大切なのではないか、という事を先日のブログでもお話しましたが、逆の立場も体験してみて感じた事です。

先日、ある出来事をきっかけに少しお話をする方がいらっしゃったのですが、凄く素敵な方(以後Aさんとする)で、私に起こった出来事を察して、「私にも同じような事があってね、なんとなく解る気がするよ」と仰ってくださった時に、凄くホッとしたのです。

「解るよ」と言われるよりも「何となく解る」と言われた事で、同じ「ような」体験をされているなら、その時どうしたのか聞いてみたいって、凄く素直に感じました。「似ている」だけなら、その体験が私にこれから起こる事に「似ている」のかもしれない、と客観的に自分を見ることができると感じたのでしょうか。それとも、「全部解る」と言われるよりも、「何となく解る」と言われた事で、まだこの後も自分の言えてない事を話しても良いという安心感なのでしょうか。それとも、他にも何かホッとすると感じる事があったのでしょうか。
多分一つではない気がします。

しかし、Aさんの体験も伺ったり、私に起こった出来事でAさんと違う部分を話しているうちに、その後どうしたらいいのかが見えてきて、凄く気持ちが楽になったのです。

ああ、「解るよ」って言われたら、これだけは話せなかったかもしれないけれど、「なんとなく」と仰ってくださった事で、こんなにも自分の事を話すきっかけにもなったんだなあと、改めてAさんの接し方に感謝しかありませんでした。

そもそも、ずっと我満していたのです。感情を押し込めて・・・。
でも、Aさんには感情も含め話すことができました。感情も出すことで、自分をより客観的に見られれば、感情を押し込めて身動きできなかった状態からは脱することができるのです。

コーチングでも、たくさん自分がしている事なのに、いざ逆の立場になってみると、改めて「話す場を作る」事の大切さを感じる事ができました。
その「場」は、安易に解ったつもりにならない事なのではないかと。
「解るよ」と言うのが優しさでもあるでしょうし、感情を吐露するには十分な言葉なのでしょうが、気持ちを解ってもらうことと同時に、もっと客観的に自分を観たい時には、話すという事も大切で、その話すきっかけになるのは、「解る」よりも「解る気がする」なんだろうなと、Aさんと話してみて感じました。

きっと私は、その出来事について何人かに話してきたけれど、「そういうものだよ」「みんな同じだよ」と言われておしまいになるので、どこか話した自分もすっきりしないから、何人にも話していたのかもしれません。
けれど、Aさんとお話できたことで、凄く気持ちが晴れ晴れしました。

改めて「解るよ」という言葉以上に優しい言葉に触れた気がしました。

反対の立場は味わってみなければ解らない事もたくさんありますね。私も解ったつもりになっていること、まだまだあるんじゃないかな。
そう我が身を振り返るきっかけとなりました。

Aさん、ありがとうございました。

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