「でも」やれないのはどうしてか

「コーチングって性善説ですよね」と言われる事があります。
確かにそうかも。
この人ならできる!と信じているから・・・。
コーチとしてだけではなく、考えさせられる事があります。

性善説も性悪説も、どちらも私は愛情深いなあと思うんですよね。人自体が好きじゃない人が、そんなこと考えたりしないものかなあと。
で、私の場合は、人には性善説。自分には性悪説かもしれません。

自分に性悪説というのは、「私にはできない」「私は楽をしたいと思っている」「わがまま」などと思っています。だからこそ、できるようにしたくて、色々と学んでみることが好きになったのではないかと。楽をしたいから、工夫をするようになってきたのかと。わがままだから、周りの人がたまには言ってくれるわがままを聴こうかと。

周りへの性善説は、「この人は嘘をつかない」「この人は凄い」と漠然を思っているようです。
だから、何かをやってもやれないとしたら、「やれない理由はなんだろう?何が邪魔をしているのだろうか」と思う。
凄い人のはずなのに、「難しいんだよ」と立ち止まっているとしたら、何があればできるんだろうか。凄い人だからできないはずはない、という前提で話してしまいます。凄いからこそ、きっと私なんかが考えなくても、きっと良い考えを持っているはず。と思ってしまいます。
時に、「方法が解らないだけなんだあ。」「いっぱい有りすぎて整理できてないだけなんだあ。」と解ると、そこをサポートすることはあったとしても、基本的にできないはずはない、と信じています。

ある時、Aさんが、「私は将来こうなりたい。だから、●●を頑張るんだ」と言いながら、全く頑張っている様子が観られなかったのです。
あれ?やりたいって言っていたのは、目もキラキラさせながら言っていたし、嘘じゃない。
だとしたら、「頑張っているのが見えにくいのは何でだろう?」と最初に思いました。要は私に見えてないだけで頑張っているんじゃないだろうかと。

ところが、「いや、まだ考えているだけで出来ないのよ」とおっしゃいます。
次に考えたのは、「何があれば頑張れるんだろうか。」「そもそもどう頑張ろうとされているのだろうか」と思い、聞いてみました。

すると、沢山色々話してくれているけれど、どうも本質じゃない気がします。
本質であれば、Aさんであれば、既に動いてみていてもおかしくないはず・・・。きっと本当の頑張れないポイントは別にあるんじゃないかと・・・。

話しているうちに解ってきたのは、「体力不足」でした。
頑張ろうにも、疲れてしまって集中できない。
頑張ろうにも、1日で終われる量が終わらない。

業務量の話しもされていたけど、工夫もして改善されているのに、一向に頑張れないのは、実は体力じゃないかと。
あとは、振り回されているものがあるのではないかと・・・。

でも、どれだけ聞いても、自分に必要な事ばかりで、止められる事は止めているとのこと。残るのは体力だけになってしまったのです。
だったら、体力を付けるのか、それとも今の体力に見合ったゴールにするのか・・・・。
聞いてみたら、体力をつけたい!と。

遠回りのように見えたけれども、運動をし始めて、疲れは出るのに、徐々に集中できる時間が長くなってきたそうです。
「頑張れると思う」と頑張れてなかった事に対しての時間を徐々に取れるようになってきたそうです。
そのことによって、多少ゴールは先伸ばしにされていましたが、きっとAさんなら、やり遂げられると私は信じて疑いません。

コーチとしてというよりも、友達が悩んでいたので、相談にのった時の話しなのだけれど、きっと性善説寄りのアプローチは、私にあっているのだろうと思います。

普段から、「できるはず。でもできないのはどうして?」と思ってしまいます。

性悪説のアプローチでも、きっと行き着く所は同じなのかもしれません。
けれども、相手が話しやすいのは、相手を信じて聞く事なのかなあと、改めて感じた例でした。
内容については、許可をもらってないので詳しく話せなくてすみません。
でも、やりとりの雰囲気だけならって、許してもらったので、少し書かせてもらいました。

きっと、このやりとりができたのは、Aさん自身も私に対して、性善説で観てくれているからなのかなあとも思いました。
お互いに信頼しているからこそ、導きだせた事なのかなあと思いました。

「できるはず。でも、できないのは何が邪魔しているんだろうか。或いは、何が足りないのだろうか。」
そんな観点を一つプラスして、周りと関わってみませんか。

そして、性悪説かも、と思う方は、是非、どんなアプローチになるのか、教えてください。
色んな相手のためになるアプローチのレパートリーを持っていたいものですよね。

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