熱意は人を動かす

必死に取り組む姿を見ると、心動かされ、人が動くという事を信じていたけれど、何に必死になるのか、によって、こんなに違うんだ!と思うことが有りました。

「熱意で人が動く」というのを感じたのは、もう中学生の頃に遡ります。

何度かお話をしたことのある部活動。
顧問の先生が居らっしゃらない時期に、とにかく自分も辛いメニューをみんなに「え~っ」と言われながらも、率先して行いました。
率先して、辛い苦しいメニューも「やるよ!」と言っても動かない人が居たら、置いてきぼりにしてでも、「早くボールに触れるメニューに移りたいから頑張るよ。」とだけ言って、続けていたように思います。

すると、みんなも渋々だった子も居るでしょうが、真剣にトレーニングにも取り組んでくれました。

その体験があるからこそ、「熱意は人を動かす。とにかく自分が真剣に物事に取り組む事が大切なんだろう。」と思ったのでした。

成功体験があると、自分なりの定義が出来ているから、いざ職場に入った時も同じようにしてみます。特に部下が出来てから。

でも、これが上手く行かなかったのです。
その人に教えて、自分は別の仕事をするので、中学の頃のように同じことを率先してするだけでは、熱意は伝わらない可能性が高い。
だったら、どうするのか。

私が取り組んだのは、彼女への指導を徹底してしようと、そこに熱意を注ぎました。
でも、大失敗。

考えてみれば、私がやってきたことをしなさい。と口で促すのみで、自分は別の事をしているので、「いかにその人に仕事をしてもらうのか」「どう動いてもらうのか」と、その人を私の思い通りに動いてもらおうとしていたように思います。

それでh窮屈ですものね。

体験があるからこそ、その人を動かそうという事に必死になってしまったのです。結局は辞めていってしまって、疲れる一方です。
次の人も更に自分の通りにやってほしい思いが強くなり、そこに情熱を注いだのに、やはり「息苦しい」と言われてしまいました。

私の定義は間違っているのか???

また中学の頃の体験に基づいて考えてみる。
全く自分自身が挑戦してないことに気づいた。

新たしいことに自分が挑戦しながら、相手を動かそうと思って、情熱を注いでみました。
でも、どんどん元気がなくなっていく。

これではまた教えた事が無駄になってしまう。

そう思って、求める結果をお伝えして、やり方は任せてみた。その上で、私自身は、他の仕事をとにかく沢山こなしました。
すると、「頑張っているから、私も頑張らなくちゃ」と言ってくれるようになってきました。

そうなんです。
人が熱意で動くとしたら、それは「相手に関わることに真剣になる」のではなく、「自分が挑戦し、自分のやるべきことに真剣になることで、相手に熱意として伝わり、結果として「私も頑張ろう」と動いて下さるように思いました。

直接的に相手に指導することに熱意を傾けるのではないのです。

中学の頃は同じことを率先してやることで、ついてきてくれたけれど、違う仕事をするのであれば、その人を私の思い通りにしようと思っても、それは「脅威」「束縛」であって、無理矢理動かそうとするのだから抵抗することが多いという事です。

何に熱意を注ぐかによって、熱意がどう受け取られるかが変わるのですよね。

最近、娘に必死に無理強いしてしまっていたように思います。
でも、ふと自分が頑張っている様子を見せたり、ふと手を離してみると、娘は自分で動くようになっていました。
それでも思い通りに動いて欲しいと、相手のためを思って伝えているつもりが、私のために頑張って欲しいになっていたのかもしれません。

違うことであっても、娘のみえる所で頑張ってみたら、娘も頑張りました。
仕事だけでなく、家庭も同じなんでしょうね。
相手を動かすことに必死になるのは、それは熱意ではないのでしょうね。

改めて考えさせられた出来事だったので、昔話もさせていただきました。

あなたは、どう思いますか。
そして、何をしていますか。

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