モデルは作るもの?

最近、良く思うことがあります。
それは、「モデルが居ない」からどうしていいか解らないという方が多いのですが、そもそも十人十色で、多様化していく状況の中、モデルが居る事の方が希少なのではないでしょうか。
だったら、モデルとは?

モデルは、現実化している理想的な存在の事だとしたら、「これからのモデル」は空想なのか、現実に居るくらいまで想像する理想の存在なのか。いづれにしても、「こうなりたい」と思う存在がないというだけで、どこかにそういう存在が居るのではなく、きっとそれは自分の中にしか居ないのではないでしょうか。
まさに、コーチングで言う所の「答え(モデル)は私の中に居る」という事ではないでしょうか。

となると、そのモデルを想像しても、意味がないように見えるのは、「あの人だったらどうするのか」「あの人のようになるにはどうしていけばいいのか」というステップや思考が見えないからではないでしょうか。

どう考えたらいいのか?
どういうステップを踏めばいいのか?

そもそも、モデルが居たら、その人と同じようにするのか?というとそういうわけではないと思います。

私は、有難い事に多くのメンターがいらっしゃいます。
その中のお一人がモデルだとしても、その人と同じステップは踏めません。私には家族も居ますから、自由に飛び回るにも限度がありますし、それなりの制限がかかります。(実際には、自分で両方を大切にしたいから、同じように「しない」と選択をしているに過ぎませんが・・・。)
違うお一人のようになりたいと思っても、ある部分では私が望んでいる姿ではありません。けれど、視野の広さや、周りへの気遣いの仕方は、モデルそのもので、私はその点では、このメンターにはわざわざ教えて頂くよりも、お話しを伺う事自体が、勉強になってしまうほどです。
また違うメンターは、性別も違うため、基本的な考え方は似ていても、夜遅くまで付き合う事はできません。いくらその方が「夜の付合いも大切だぞ」と仰って下さっても、最初の少ししか難しいなどもあります。

私には多くのメンターやモデルがいらっしゃって、きっとそれぞれに学ぶ所、真似したい所がありますが、全てを真似できるわけではないのです。
そう思うと、結局、私も自分の自分の理想に向けて、選んでいるんですよね。
結果として、私は私の理想を追いかけている事にもなると思います。

そうした中で、一番難しいと感じているのが、仕事と家庭、そして健康との「対話」です。
バランスという言葉を使うには、天秤じゃない気がしています。自分の中で、自分らしい生活パターン/仕事パターンを、子供の成長や、自分の老い、そして家族の介護など大切にしたいものの比重が変わるたびに、少し「自分自身との対話」をして、家族との「対話」もして、新しいパターンを常に模索し続けながら、それでも理想を諦めず、少しでも理想に近づいていくというプロセスが、非常に多い事が、いつもあることです。

このプロセスの中で、「変化に気づく」→「対話する」→「新しいパターンを思考する」→「試す」→「修正する」というプロセスがひと通り終わる頃には、次の変化がやってきて、このプロセスは常に「安定」を運んでくれないように感じているのです。

女性だからなのでしょうか、そのことで悩み、落ち込む事もあります。
けど、「選択しているのは自分」という思いがあるからこそ、自分で変えていくしかないのですよね。
この落ち込んだ時には、「自分の中のモデル」が濃い霧の向こうに消えてしまうことがあり、何をしていいのか解らなくなったりもしました。
でも、時が解決しているのを待っていても、自分のモデルには近づけないのです。

自分が自分のモデルに近づこうとするのが楽しい時期は良いけれども、落ち込んだ時には、それすら見えなくて、「私はどうしたいんだろう」「なんで、こんな事を必死にやってきたんだろう」なんて悩む時さえあります。
けれども、結果として、そんな時期もあるから、一段と「でもやっぱりこうしたい!」という思いが強くなり、自分のモデルに向けて進んでいく時がくるように思っています。

自分のモデルは自分の中にある。
だから、それが見えないとしたら、ただ違うものが沢山邪魔して見えているだけで、本当は自分の中にある。
現実の中にモデルが居ないと解っているということは、違う所にモデルは居るという事。

「見えなくなっている」のと、「ない」のは違うんですよね。

ましてや、今までなかったモデルに近づくには、試行錯誤がどうしてもありますよね。
だったら、プロセスも自分で作っていきませんか。

まだ迷走中の私ですが、そんな事を感じながら、今日もまた0.1mm位は理想の自分に近づいたかな。(笑)

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