できることをするのみ

先日、メンターのお一人のブログに「今日が最期の日と思って今日を生きている」とありました。もう10年以上前にも伺った言葉。一貫していらっしゃる姿勢に、さすが我がメンターと誇らしくも思えましたし、私自身も10年以上前に伺った言葉から、日々精一杯できているかと向き合ってきたように思います。
が、先日。私の尊敬する方のお一人が、入院されたと伺いました。あんなにお元気だったのにと思うと、本当に命という事を身近に考えさせられます。

その尊敬する方にも、時間を作ってお会いしにこうと思っても、年に1度お目にかかれるかどうかです。
けれども、その1回の際に、色んな考え方やお話を伺うだけで、「精一杯と思っていても、まだ私には出来る事がある」と可能性よりも、精一杯という勘違いを思い知らされるような気がして、お会いする事が当然のように思っていました。

が、知らせを伺った時から、「まだまだ教えていただきたいことがあるのに」「居て下さって普通に話して下さるだけでも学ぶ事は多いのに」と、生きていて欲しいと願うばかりです。

ついつい雑務に身が入らず、珈琲を飲みながら、その方に教わった事などを思い出していました。
が、ふとメンターの言葉と、その尊敬する方の言葉が、表現すら違えど、「今できることを精一杯しているのか」と言われているような気がして、急に心がざわついてきました。

珈琲を飲んで休む事も良いけれど、今日立てた計画は進んでいるのか。
私は、影響を与えられるだけでなく、私もその方々と同じように、少なくとも家族や出会う人達には影響を与えていく存在であるとしたならば、その人達のためにできることは、感傷に浸る事ではないだろうと。
メンターや尊敬する方が、掛けて下さった言葉を実行していくことが、今私にできることではないかと。

無理して奮い立たせても進まないだろうと、珈琲を飲んでみたことで、「心のV字回復」ではないけれど、自然に「そうだ!できることをしよう」と自然に奮い立つものがありました。

時に感情に反して行動してみることで見えてくるものもあるでしょうけれど、無理しすぎてしまいそうだったので、鑑賞に浸ってみることで、今も死と戦っているであろう尊敬する方のお顔が浮かび、私ができることがこれじゃないと思えてきました。たまには気持ちに正直に無理しない時もあって良いのかなと思いながら、今日までの事を後悔しなくて良いように、今日の計画はやりきろうとエンジンがかかりました。

その一つが、今日はブログを書こうとしていて書いていなかったこと。
ここからのスタート。

本当はこの事を書くつもりではなかったけれど、やはり私らしく、今の気持ちや考え方の変化を綴っていくのも良いものかと思いました。

あなたは今日、どんな事をしたら「やりきった」と思えますか。
あなたは今日、どんな事をしたら「悔いなし」と思えますか。

毎日を精一杯過ごすだけでも、本当は凄く幸せな事なんでしょうね。
あなたはどう思いますか。

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