聴いてくれるだけで良かったのに

一昨日、知識も経験も豊富な講師の皆様とお会いしました。が、正直、違和感がありました。というよりも居心地が悪くなって、隅の方に陣取っていました。
その帰り道からずっと自問自答していましたが、昨日の家族との会話で解りました。そして、会話から学んだこともありました。

それは単純に私自身が、「この人達のようにはなれない」と思ったからでした。自問自答では、だからこそ私が講師をしていることは違うのではないか。何で私はこの場によばれてしまったんだろう。異端児なのではないかと考えていたのです。

一晩明けた昨日。一人で悶々とした感情を溜め込んでいたくなくて、ただ感情を吐き出したくて、家族に話しました。
私 「昨日、こんな事があってね、何だか自分が合わないような気がしたんだよね。」
家 「そうじゃないよって言って欲しいの?」
私 「そんな事が言われたいわけじゃないよ。ただそう感じたって事を口にしたかっただけ」
家 「ふうん。そうなりたいわけ?」
私 「ううん。」
家 「なら、なんで合わないって言葉になっちゃうわけ?ずれてるよ。」
私 「そうなんだけど、昨日のような方々が適正があるのかなって思っただけだよ。」
家 「それで?」
私 「いいや。感情を出したかっただけ・・・。何か言われたいからじゃないのに」

私がずれたのも解っているし、自分がそういう講師を望んでいるわけではなく、違うスタイルの講師なんだと思った。だから違和感があったことも解っていた。
確かに「ずれ」たのは、どこかで人前に立つことに苦手意識があるけれど「誰かのためになれば」と思って前に立つ自分に対して、「人前で話すことが好きなんです」と言えている方々の目の輝きが違うように感じてしまったのです。

だから、自分はそれでも、ここにこうして一緒に居られる講師として認めてもらっている事に対し、「一体自分には何ができているんだろうか」という自分の強みについて、もっと明確にしたいだけだったように思うのです。
けれども、その目の輝きが違う事に対し、臆してしまった自分が「比較することないのに」という思いと「だから私だけのものがあるんだろうな」という思いの両方があって、ネガティブな感情だけを吐き出したかったんだと思います。

にも関わらず、家族に一蹴された思いまでしてしまいました。気づきが欲しかったわけでもない。ただ、そんな事があったんだねってだけでよかったのに。

けども、待てよ!
これって、家庭でだけじゃなく、色んな場面で起こっている事ではないだろうかと我に返りました。これは、忘れかけていた「聞かれない」と思っている人の心の声を体験できたのではないだろうかと。凄く良い体験をさせてもらったのだと・・・。
急に、がっかりだと思っていた事が、「ありがとう」という感謝に変わった。(けど、先ほどまでの事があり、素直に表現できなかった私。まだまだ小さいなあ。)

そうかあ、聴くって当たり前だと思っていたけれど、聴いてもらえる事って、その後をポジティブだけにしてくれる可能性を秘めた大切な出来事になるんだあ。
久しぶりに小さな事から、大きなことを得られた不思議な満足感に満たされました。

「ただ聴くだけ」
それが、どんな効果があるのか。それは体験した人だけが感じられる事なんだなあ。私ももっとじっくり話を「聴くだけ」に集中してみようかなあ。

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