仲間の存在は大きいが・・・

仲間ってすごくいい言葉だなと思いますが、時に「依存」「期待」をしてしまい、自ら仲間を失う事もあるなと感じます。

情けないほど都合が良くて、山登りをしながら、誰かリーダーが居ればいいなあと、仲間の中で率先して引っ張ってくれる人が居ると、その人に頼ってみる。けれども、山の頂上に到達すると、引っ張ってくれる人の言葉がいちいちうるさく感じる事もあります。
凄く身勝手だなと思いながらも、超常に達すると、共に喜んで騒いでくれる人が良い仲間に見えてしまいます。
疲れきった下りは、周りを気遣いながら優しく接してくれる人が有難く感じ、仲間に色んな人達が居るからこそ、その全てを感じる事もできるのですよね。

本当に仲間の存在というのは、大きいものだなと感じます。けれども、自分がやりたいことが明確で、一人の方がいいのにと思うような場合には、仲間を引き連れる事が重荷に感じる事ってないでしょうか。

私も本当に身勝手だなと思うことがあります。
自分が明確であれば、他の人を導いてあげることもできるし、普段助けてもらっている事もあるのに、煩わしいと感じる事もあります。
リーダーという役割を与えられた時がそうでした。メンバーであれば、仲間として、お互いにやりくりできていたことが、チーム全体を常に見渡す役割を与えられただけで、すごく窮屈に考えてしまっていました。

しかし、本当は何にも変わらなくていいんですよね。
お互いに仲間という位置づけを変えていなければ、それぞれの良さを発揮し合えば良い。それをチーム全体を見渡して、適任者を活用していくことで、その人の強みを引き出していくこともできるし、チーム全体に良い影響を与え合う事もできます。

それを、自分で役割を固定することで、急に仲間の存在を重みに感じたのは、私の心の中で「リーダーとはこうあるべき」「メンバーとはこうあるべき」という私の中での「あるべき論」を作ってしまったからだと思います。

あるべき論で大切な仲間を失いかけた事があったことをふと思い出したのも、何かあるのかなと感じたので、そのまま書いておきます。

結局その後は、仲間にも同じように「あるべき論」があるのではないかと考えて、「チーム」「仲間」というものについて、話しをしました。
すると、多かったのが、「◯◯さんにはこうして欲しい」「××さんはこうしてくれると思っていたのに・・・」「仲間なら、こうするものだと思っていた」「その中で私はこういう事をしていかなければならないと思っている」など、本当に様々な視点からの言葉が出てきました。
中には、「期待」「依存したいこと」なども出たりして、そのことをお互いが知らずに居たんだなとビックリしたものでした。

その後は、考え方を変える部分は変えて、統一したい部分は統一して、仲間という認識が同じになった中で話しが進みました。
仲が良ければ良いほど、こうした話しってしづらい所もあるのかなと感じたのも事実です。

仲間という存在が大きいからこそ、その在り方について話す時間も大切なんだなと私は今でも感じています。けれど、今はちょっとおろそかになっている部分かもしれません。改めて考えてみたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました