驕る事とプライド

自分で、たまに思いあがっているのかな?と思うことがあります。でも、プライドという言葉に置き換えられるようになれば、それは全く違ったものになるのかもしれないと私は思ってしまいました。

それは、研修の内容を一旦一字一句書いてみるのですが、その時に読んでみると「何だか偉そう」と思う言葉の表現があります。「いつの間にこんなに私偉くなったんだろう?」と思わず笑ってしまいます。
そのたび、この表現には気をつけようと思うのですが、これもまた私の勝手な思い込みで、他の人にとっては気にならないかもしれません。
そう考えながら、また言葉を書き直してみると、自分の立ち位置というか、役割が見えない程になってしまうことがあります。
再度読み返すと、講師なのか受講生なのかお客様を迎える人なのか、またまた曖昧だと感じるのです。

例えば、発言があるたびに「ありがとうございます」というようにしてあると、あれ?参加者は一緒に学びあうのであれば対等で居たいのに、確かに有難いけれど、言い過ぎていると「お客様と接待する人」のような対等でない関係を自分で作ってしまっています。敬語と丁寧語を使いすぎてしまうことで距離が逆に出来てしまうのです。これは望んでいる状態ではありません。

そしてまた書き直してみる。
当日にこの言葉一句を話すわけではないのですが、毎回作るたびに「私は何者?」という事を繰り返しているように思います。
けれども、仮に「経験は多い」という意味でのプライドを持てたとしたら、もう少し言葉の使い方も対等で居られると思うようになりました。

私がついつい謙りすぎてしまう研修という研修は、私が過去の経験に基づいてしか関われないと思っている研修でした。ところが、自分のコーチと話していて、「過去の経験がただ経験しているだけのレベルでないから自信を持ってもいいんじゃないの?しかも今はしていないというけれど、結局しているじゃん。●●の時とか・・・・」などと励ましを受けたり、事実として伝えられると確かにそうかもしれません。
私の中で「今現実として、あの(自分の経験から想像)体験の渦中に居るこの人達はすごい!」と思っていることで言葉が謙ってしまうことが分かってきました。
逆に、自分が今も経験し続けていることに関しては、逆に「何様?」って感じの上から目線になっているのだとみえてきました。

常に変化をする世の中で、「これが絶対というもの」など無くなってきています。というより元々絶対なんてないのでしょう。けれども、体験からこれは絶対と決めてしまうことが「驕り」だとすると、柔軟性がなくなってしまうように思います。
けれど、体験は貴重なものだから「プライド」にしながらも、周囲の人達と学びあい、今に柔軟に対応していけることが大切だと思っているし、今までもそうしてきたような気がします。自然と・・・。
ただ、今には合致しないかもと思いすぎることで謙りすぎるのも、きっと私なりの「驕り」の一部なのかもしれません。きっとこういう私は「一般論をそのまま受け容れるものか」と思っているのではないかと思ったのです。

経験をしてきたことへのプライドは持ちながらも、その場に居る方々を尊敬できていたら・・・。お互いが尊敬し合える関係を作れたら・・・。
そう思えたときに、自分なりの対等を作り出すポイントがやっとみえてきました。
試行錯誤は続いています。
けれども、驕る(思い上がる)ことなく、お互いを尊重し合える関係を作っていきたいと改めて思いました。

ちょっと自分の言葉を見てみて、自分の関わりたいスタンスをどう作るかを「驕り」と「プライド」という角度から見て見ました。
他の人に合致するものではないとは思いますが、いろんな視点の一つとして、加えていただけたらなと思います。
そんなこんなで今日も朝から、一字一句と格闘して、自分を見つめてみています。
手直しが減っていくといいなあ。

あなたの驕っていることは何?プライドは?

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