この人達ならば・・・

昨日(2011年4月3日)は自分にはなかった体験をしました。
何って?私的な事で人前で泣くのは小学生の時以来でした。

小学生の頃、親に「人前で涙を流すのはうれし涙だけにしろ!泣く暇があったら、どうするかを考えろ!」と再三言われてきたこともあり、人前で感情的に泣くのは嬉しいときだけ。あとは悔しくても、悲しくても、隠れて泣くことはあっても、人前ではいつも笑っていようと心に決めた。
そうすることで、周りの人達に不快な思いをさせないだけじゃなくて、常に前向きに考えられるようになってきたように感じます。
先の不安なんて、いっぱい探せば出てくるけれど、不安を感じるならば、どうすればいいか考えて動いてみるだけ。
そうしてみると、不安って一瞬のものだし、きりがないなって体験から学んでいったように思います。

だから、どんなに辛くても、悲しくても、悔しくても、前に前に進んできたように思います。

でも、昨日はわざわざ押し込めている感情を出してみようと思える安心感のある場に居ました。
自分では普段から抑えているから大したことでもないと思っていたのに、本当はすごく大きなことだったようで、思わず涙が溢れてきた。他の人の場を崩したくない!という思いが変わるわけじゃないので、その場から一旦は席を外したものの、恥ずかしいとか情けないという思いはなかった。今までならば自分を責めてしまっただろうに。

なぜ、そうなれたのか・・・。
後付ではあるけれど、そこに居る人達ならば、私のありのままを全てみせても大丈夫だろうという思いになったんだと思います。かと言って、普段カッコウつけているわけでもないけれど、「全てありのままに」と思えることってそうそうあるものではないと感じました。

そう思うと、私は仕事の中ではすごく役割に必死で、「上司はこうあらねば」「仕事では女性らしく、でも女っぽくなく振舞おう」「公平に接しなくては」と縛られていました。立場もあるリーダーはある意味俳優なんだと思う。
けれども、プライベートでどれだけ私を見せたかというと、見せてなかったように思います。みんなには見せてもらい、上司であることの優越感に浸っていたのではないかと思う事もあります。
でも、私がゆとりをもって接するための自分なりのこだわりだったのだろうと今は思います。

それが全て外れた昨日、きっと抑えていた感情が表に出せたんだろうと思います。
クライアントさんは信じているけれど、「人」そのものをどこかでは信じきれてなかったのかもしれません。
昨日の体験を通して感じたのは、私が信じた時に私もまた相手に本気で信じてもらえるんだろうなという気になりました。

最後のコメントを求められたときに、ありのままを見せて対等だし、信じあえている仲間に伝えるメッセージは浮かばなかった。
ただただ、「ありのままに居られる仲間っていいな。これからもありのままで居る事を認め合おうね」ってだけでした。企業の中では難しいことかもしれません。でも、そんな時間をもてることは、同僚を・上司を・部下を・お客様を・家族を信じて、信じられていくためにも必要な事のように感じました。

そんな場がどこにあるのか、どこに作るのかもあなた次第なんですよね。
私は、立場的に自分を振舞う事があったとしても、そうした体験をしたことで、今まで以上に人を信じきることができる気がします。
とは言っても、また戻っちゃうかもしれないから、定期的にそんな場を作って行きます。
近いところでは、家族かな。

捉え方だけだから何も変わってないのかもしれないけれど、でも明らかに自分の中で、人を信じる信じ方が更に高まった気がしています。

人は自分が信じてもらうことで信じられるようになることもあるんじゃないかな。

あなたが信じきれる人って誰ですか。
信じきれる瞬間ってどんな瞬間ですか。
あなたが丸ごと信じてもらったときってどんな時?
その人のことをあなたはどう思っていますか。

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