自分自身を認めてあげることの大切さ

人によるのかもしれませんが、人というのは一番自分に厳しいのかもしれません。だからこそ、自分を信じてあげられなくなるのかもしれないなと思ったのです。

昨日(2010年12月1日)は、私が行った講演のテープ起こしをして下さった方がいらっしゃって、その資料を拝見しました。改めて見てみると恥ずかしいものです。
きっと、文脈が繋がるように修正してくださった部分もあるのでしょうが、それでも文脈がおかしい部分もありました。接続詞の使い方が間違っていたりもしました。
この講演を熱心に聴いてくださった方に申し訳ないなと思える流れでした。資料のある方には資料どおりの流れですが、相でない方は、今何を伝えている場面なのかを考えないといけません。淡々と語られています。
こうして文にされると、講演を録音して聴いたときとはまた違うものが見えてきて恥ずかしい思いでした。

しかし、考えてみたら、自分が体験から話し続けるという「講演」というのは膨大な量を話すものだなと思いました。ワードで13ページにも及んでいて、思わず感動もしました。
「以前は人前で話すが苦手だった私が、こんなにも話せるようになったんだな」と。

不思議なもので、「恥ずかしい」と思っていたときには悪い点ばかりが目に入ってきますし、人前に立つ仕事を続けても良いのだろうかと自問自答までしました。
しかし、「こんなにはなせるようになったんだ」と感動してからは、良い点も見えてくるのです。単純に自分の体験がちゃんと伝えられている事に感心したりもしました。

ちょっと自分の成長を認めることができたのです。その途端に、自分への意識から「聴いていた人にはどんな風に伝わったんだろう?」「私が聞き手だったら、今どの部分が耳に入るだろう?」「次に同じことを話す機会があったとしたら、この部分を強調したい」などと、前向きな思いや、相手の様子が目に浮かんできたのでした。

自分を認めてあげるという事は、単純に自分を信じることができるだけでなく、人に対する思いを考えるゆとりにも繋がっていくんだという事を体感することができました。
また、耳で聴いて認めることと、見て認めることでは、全く違うものになるのだという事も知りました。

結局、文には強調だとか、間だとか言語以外て伝わるものがないので、本当に「言葉」のみが伝わるんですよね。それを読む人の体験や経験がなかったら、どれだけイメージを描かせてあげられるかが大切なんだと知ることもできました。耳で聴く事が「感覚」での理解だとしたら、文で読むことは「思考」での理解なのかもしれません。

ちょっと文で思考的にも認めてあげられて、成長を客観的に見ることができました。

きっと人を見る以上に自分に対しては真剣に観るからこそ、厳しくなりがちなのかもしれません。しかし、しっかり見て、自分の成長を認めてあげられたことで、私もこれからどうなっていきたいかをまた膨らませて考えることもできました。

人前にたつ人、人を纏める人ほど、さらに自分を認めてあげることが必要なのかもしれませんね。
そして、時に厳しく、時に優しく、自分の成長を見届けていきたいものですね。

あなたは自分自身のどんな部分が成長していると認めてあげられますか。

コメント

  1. このお話は、胸に突き刺さってきますネ。
    僕は、自分のことを責め過ぎて「うつ」になってしまいました。
    自分のことを温かく見守るか?冷たく責め続けるか?
    これによって、大きく変化します。
    「嫌だナっ」って思うところも含めて自分なので、
    温かく見守っていたいと思います。
    嫌なところは、できる範囲で修正していけばイイのです。
    「できる範囲」ってところが、重要です。(へ”へ)

  2. coachsmile より:

    ガリレオさん

    「できる範囲」ですね。
    ガリレオさんの体験を通した言葉はいつも心に響きます。

タイトルとURLをコピーしました