心の器の小ささ

私はきっと「怖れ」をたくさん持っているんだなあと感じます。
「◯◯だったらどうしよう」「◯◯と見られたら嫌だ」「◯◯を失ったらどうしよう」など・・・。
たくさん怖れを感じているから、そこに触れる話しや体験には過敏に反応して、いきなりもがきだします。そうでない時には、ゆとりを持って、周りのためなんて考えているのに、結局偽善ではないだろうか。
自分自身に必死に問いかけてみると、自分の心の器が小さいなあと受け入れざる場面がたくさんあります。

ふと思うことがあります。
膝を悪くしてしまって、体調を崩した時から、電車で少しでも座りたい。
今までは、近くに自分より年上に見える人が居ると、まずその人が座らないかと確認して、その間にも座る人が居なければ座るけれど、座られれば良かったなと思っていました。近くに困っている人が居ると、声をかけずにはいられない。ある意味お節介。

けれども、最近は座りたい。
けど座った瞬間にお年をめした方が近くに居ることに気づいてしまうと、「何というひどいやつだ」と自分を責める。でも一駅だけ座らせて、って思っているうちに、他の席が空いておすわりになると、「ああ、さっと立てばいいのにごめんなさい」と思います。
後悔するくらいなら、痛くても我慢してもいいだろうに、周りが見えなくなってしまう自分に「優しくないな」と感じることがあります。

先日、ある企業の研修に伺いました。
高熱を出しても、「この研修に参加したい」と無理を押して参加してくださった方がいらっしゃいました。すごく有り難いことです。

にも関わらず、私は感謝が先ではありましたが、次に「えっ、マスクは?」と思ってしまいました。
思わず、身体が逃げてしまった私が居ました。
その態度でその方も気づかれて、「すみません。」と。

私は、風邪を移されたらどうしよう。明日からも仕事があるし・・・と思ってしまったのです。怖れ。
せっかく楽しみにして、無理してでも参加したいと遠方から来てくださった方に、私はなんという態度をしたのでしょう。心が狭いなあ。

「せっかく来てくださったのでしたら、少しでも学んで欲しい」と考えて、冷静に接しながらも、どこかで「私だけでなく、ここにいる人達に移っちゃったらどうしよう。少しでも体調が悪化して見えたら、お声掛けしよう。」と、身体を案ずるより、影響ばかりを考えてしまう私が居て、「冷たいな」と思いました。

結局、最後まで楽しく参加され、途中で体調が悪いと訴える人もいらっしゃらず、無事にその場を終えました。
「ああ、何事もないならば、もっとその人のことだけ心配して居ればよかったなあ。」と自分が心を広く持てなかったことに反省。

こう考えてみると、私はそもそも「心が広い」と思われたいのでしょうね。
だからこそ、器が小さいと思う時には衝撃を受け、自分を責め、勝手に凹む、という反応をしていました。「心の器が小さい」のに、「小さいと思われたくない」という怖れがあるのでしょうね。

ここで書くことにも勇気が要りました。でも、それが私のようです。
自分の心の器が小さいということを受け入れて、少しでも大きくしたいなら、ほんの少しずつでも大きくしていく何かをしなければならないのでしょうね。

何をしたらよいのか。
正直、器が大きくなったなと思える瞬間は、たくさんのギリギリの経験を積み重ねた時だと思います。
経験してきたことに対しては、ゆとりが生まれ、怖れもなくなります。
きっとその積み重ねなのではないでしょうか。

「ギリギリの経験」「挑戦」
これもまた怖い時はありますが、失敗しても諦めなければ良い結果になりますから、諦めず続けて、私自身が「器が小さい」と認めながら、ちょっとずつ器も脱皮して、大きな器にしていきたいなと思います。
きっとお恥ずかしながら、亡くなるまで「器小さいなあ」と受け入れることの繰り返しになるとは思いますが、そうは言っても、少しずつでも大きくなっていったらいいなあ。

そうなることで、周りの心配を堂々とできるお節介に磨きをかけていきたいなと思います。

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