何を言ってほしいのか

小学生の頃にはあまり記憶がないのですが、中学生の頃からは同級生に相談されることが多くて、色んな話を聞いていたなと思います。
なので、コーチとして話を聴くという事は、特別な事ではなく、凄く自然な気がします。

が、中学生の頃からたまに相談というよりも愚痴を聴く事もありました。私以外の人への文句というのでしょうか。
そんな時に思う事がありました。

話終わるとみんなスッキリしているので、それで良いんだろうなあ、と考えつつも、どうして私に話しているんだろうか、という事です。
自分で言うのも何ですが、口は堅いので、噂として漏れる事がない安心感はあるのだろうと思います。
それにしても、本人に面と向かって言っても良いだろう些細な事も私に話してくれるのは、どうしてだろう?と考える事もありました。

そこで行き着いたのは、「言って欲しい言葉を私が言えているから」なのではないかと。
大親友というわけでもない私に、聞いてって来てくれるのは、代わりに私が怒ってしまったのが「代弁してくれた」となっていたとか、言葉が返せない内容だったから黙ってしまったのが、「黙って聞いてくれた」とか、ヒントが欲しい時にヒントを渡していたとか、たまたま相手が欲しい言葉を伝えていたのかなあっと今更ながら考えることもあります。

今、敢えてそう思うのは、
「なぜ私に話してくれているんだろう?」
「私に何を言って欲しいんだろう?」
「どう関わって欲しいんだろう?」
という事は、コーチングだと相手に率直に確認することもありますが、普段は確認しないにしても、自分で自分にしている自然な問いなのです。

ちょっと気に入らない事があると敢えてそうでない言葉を投げたりして、「心が狭いな」って思う自分が居ることも正直あります。
けれども、私を話す相手に選んでくれたのは、何か無意識かもしれない理由があるように思えて仕方ないのです。

それは、相手だけでなく、私も同じです。そういう人達の話を聞いた時の対応は、コーチングの時ではない限り、私が勝手にそうだろうなって思ってしていたり、無意識な反応です。
だとすると、私自身も同じような事を考えている可能性があるタイミングだって事じゃないかと思います。
そう考えるからこそ、話を聴くのは相手のためだけではないと思って聞けているし、上から聞いているつもりもないです。

先日も、「その相手の反応は酷いよね!」と思った事を素直に反応したら、多分抑えていた感情だったのでしょうね、「うん」って言ったまま泣き出してしまい、どうしていいか解らないからずっと泣き止むのを待っていました。
すると「ありがとう」って、笑顔になっていました。きっと抑えていた感情を解ってくれる人に話したかったのでしょうね。
そして、私自身も、ちょっと別な事だったけど「酷いなあ」と思える事が起こった後だったので、自然に「酷いね」って口から出てしまったんだと思います。

タイミングはあるのでしょうが、「何を私に言って欲しいのか」があって話してくれるとしたら、本当に聴ける事自体、有難いことです。
どんな形にしても、誰かに頼りにされるって嬉しいものですね。

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