限界を知るってこういう事かあ

限界を知るって、「ここまでなんだ」と思い知ること、だとは思っていましたが、それだけではないんだと気づくことができました。

限界を知るって、大きく分けると三つあるんだなと思いました。

一つ目は、自分の力量を「これ以上はない、またはこれ以下はない」と思い知る事なんでしょうが、その先を諦めること。

二つ目は、自分の力量を思い知って、先を自分以外の人の協力も得ながらやると、手を借りてみること。

三つ目は、自分の力量を知り、同じ方法ではなく、他の方法を模索していくこと。

どうでしょうか。あなたはどう考えますか。
一つ目は、思い知ることで先がなくなる。
二つ目と三つ目は、先をどうしていくのか、考えている。もしかしたら二つ目は三つ目の中の一つかもしれません。
けれども、敢えて三つにしたのは、私がこの段階を経てきたからかもしれません。

自分が精一杯やっても超えられないと感じた壁は諦めていた。
けれども、助けてくれる人が居ると知って、助けていただきながら、支えていただきながら、壁が乗り越えられるようになってきた。
そうなると、少しだけ自信がつくのか、超えられない壁はないと信じられるようになっただけなのか判りませんが、仮に一人であっても、他の方法はないかを模索するようになりました。

それでも、もう手は尽くした、という時には、また一つ目の気持ちになり、次に二つ目。とエンドレスに繰り返しながら、今の私が居るような気がします。

正直なところ、歳を経てくると、体力的に無理が効かなくなってきて、体力で押せた部分が体力では限界を感じることが多くなりました。
だからこそ、また自分の限界を思い知り愕然としながらも、方法を模索したり、人に頼ってみたりしています。

一つ目だけで終わったら勿体無いと思うこともありますが、どうしようもないものがある事を「限界を知る」という事だとしたら、「体力には限界を感じた」私が、体力を諦めた時から、他の方法を模索して手に入れたものもあります。
が、体力を諦めた事で、運動もしなくなっていたのです。「維持する」という事まで、放棄してしまった自分に気づいたのです。

限界を知るのは、時に大切な事だろうけれども、その限界に向き合ったからこそ、そのこと自体を「ないもの」と捉えたかったのだろうか。
「維持」と言うことすら考えてなかった自分に、今更ながら残念だと思いました。なぜなら、「維持」できたかもしれないことを維持できていなかったからに他なりません。

今、体力の事だけの話をしていますが、気づいてみたら、他の事も同じことが起こっているように思います。
「維持」しつつ、更にできることはないのか。他の方法はないのか。少し考えていくことは増えるかもしれませんが、時にはそんな視点も持ってみたいと思いました。

こう考える視点が増えただけでも、私の限界を一つ越えたのかもしれないと思えた朝でした。
他愛もない事だけれど、体力や健康などを感じる時、「今しかできないことは今やろう」って、限界のない思いに馳せた朝の目覚めでした。

あなたは限界を感じたことはありますか。
その時にどのような選択をしていますか。

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