自ら変えよう、成長しようと思う時

最近、少しヨガにハマりつつあります。自分の身体との対話をしながら、自分で自分の身体を矯正していき、まるで自然と一体になるような感覚が心地よいからです。
そんなヨガもホットヨガなので、サウナの中でヨガをしているイメージ。場所も大きくないため、少人数で行います。その時にたまたま出会った方と最近は、ご一緒することが多いのですが、昨日は面白い体験をしました。

お互いの仕事の話から、たまたま「言葉遣い」についての話になりました。
一人は自営業でお客様相手のご商売。お一人はパートで製造業にお勤めの方。
話しているうちに、「言葉遣いって大切なんだって感じてきた。今まで意識してなかったけど、気をつけなくちゃ。教えてもらえる?」と。

今までにもお客様や同僚から注意されたりしたこともあったそうです。
が、注意はされるけれど、自分にとっては関係ないと思うから、それほど本気にはなれなかったそうなんです。

考えてみたら、私も、いくら怒られようと、「今をやり過ごせばいいや」と思いながら聞いている時って、全然頭に入って来なかったなあと、小さい頃を思い出しました。
運良く、「なんで勉強せなあかんか解るか!」と、答えのない問いを父にもらっていたから、自分なりに意味を見つけて勉強することもできました。
名前を呼び捨てにしないのも、「名前をつけた人の思いが詰まっているのに、勝手に省略したり、呼び捨てにするな」と意味を教えられたからでした。
教えられただけでなく、それが自分には「そうだな」「大切なことだな」と思えたから、気にするようになりました。

今でも忘れない。小学校3年生の時に同級生に大笑いされました。
休み時間が終わり、先生が教室に戻られる時に、廊下側だった私は「先生がいらっしゃったあ」と、大声でみんなに教えたのです。
すると、みんなが一斉に大笑い。「先生が来たあ、だろ。なんだそれ?偉い人でも来るみたいじゃん。」と。
年上の人には敬語を使うのが普通だと思っていた私に、大爆笑と、「おかしいだろ!」の声。
「何で間違ってないのに、笑われなければならないのか」が解らなくて、その後のホームルームで議題にしてもらいました。でも、小学三年生ですから、先生も「どんな言葉でもいいけど、先生に聴こえる程の大きな声で知らせるのは止めてよ。」だけで、終わってしまいました。

論点がずらされ、どうでもいいことに時間を使ったねというようなみんなの雰囲気に、孤立した気分で、それからは大声も出さないし、みんなに「いらっしゃったよ」と教える事も止めてしまいました。けれど、頑固者だったので、ずっと年上の人には敬語を使い続けました。

ただ、敬語を使っていると淋しいのは、ある一定の仲良しまではなれても、それ以上に深く仲良くなる事ができない気がしました。
社会に出てから、年上の方と同僚になる機会があり、敬語でなくてもお話できる事も時には必要かなと思ったのをきっかけに、やっと敬語以外で話せるようになりました。

昨日お会いした方とは逆で、頑なに敬語だけを使ってきた私が、必要だと思えてやっと敬語以外の話し方を年上の方々とできるようになったのは、社会人になってからだったのです。

昨日の方々は、昨日お話していて、「敬語って大切だね。」と必要性を感じて、昨日から意識が変わられたようでした。
目的というものだけでなく、「自分に必要なこと」であれば、自然に身につけようとか、止めようとか、学ぼうなど、できるのかなと、意図(目的)が大切だと思い込んできたけれど、もっと身近に、「自分に必要だと思えるかどうか」も重要なんだなと思いました。

実際に、その3人が共通しているのは、「汗を書くことは重要だよね。」「身体と向き合う時間は必要だよね」という事で続いているホットヨガ。
必要だからこそ続け、先生からは「徐々にハードルがあがりますよ」と、ちょっとチャレンジングな体勢を言われても、必要だと思うから、逃げずに楽しんでやれています。

「自分にとって必要だと感じること」が大切なんだろうなあ。と思いました。

そう思うと、自分の部下には、表面的な事や、目的は伝えても、その人達にとって「必要だなあ」と思えるものになっていたのだろうか。改めて、聞いてみたくなりました。
もしも、なっていなかったら、必要と思えるような問いを見つけ、必要だと思ってもらえるようにしていけたら、自分から成長してくれるようになるんじゃないかなあ。(妄想中)

妄想だけで、終わらないように、試してみます。

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