本音を言える人を持つ

愚痴や文句って敬遠されるけれど、仕事上の愚痴や文句って大切にしたいと私は考えています。なぜなら、そこにその人の拘りや、理想も隠れている事が多いからです。ましてや、言葉に出すことで、呼吸の「吐く」と同じように、淀んだ物を体外に排出して、すっきりするという事もあるのではないでしょうか。
けれど、所構わずだと弊害もあるし、受け取る側が評価をしてしまうこともありますので、本音を言える人を持つって大切なんだろうと思います。

私はこの1ヶ月、本当に身近な人にいろんなことが起こりました。そのことで、仕事に集中させてもらえないという事態もおこりました。ゆとりがなくなると、本当に情けないほど、人の心の器って小さくなるんだなと、見えてしまう位顕著に自分の思考が偏っている事に気付かされました。

そうなると、愚痴も文句も出てきます。私が大切にしてきた愚痴や文句には、価値観は大きくなり、自分の価値観に周囲が合わない事に苛立ち、理想というよりも、ただただ文句が言いたいだけなのではないかと思う自分が居ました。

「いつも協力してくれている人達だから文句なんか口にしちゃいけない」という思いと、「なんで解ってくれないの?」という価値観を共有できないもどかしさが、自分の中で戦っているようでした。
結局、自分の心の中の声全てを吐ける場所はなく、自分の中で未消化な部分を抱えたまま、切り替えて仕事をしてみたりもしました。けれど、作業はできるけれど、考える仕事は頭が働かないのです。情けないほどに・・・。

そんな時、こんな状態だからコーチングを出来る状態にないとコーチングセッションの時期を延期してもらった自分のコーチからメールが来ました。
「コーチとしてではなく、友達として、話は聴けるよ。どんな話であっても、私は変わらず里江ちゃんを好きだから、どんな事でも話してね。溜めてしまうより、感情も思いも吐き出してしまったほうがいいよ。どんな汚い言葉になっても、それが里江ちゃんではないから、人畜無害な人に話す分にはいいんじゃない?一人で苦しまないでね。」という感じで、すごく温かい思いのこもったメールでした。

本音を言える人が居る。
自分が頑張っている事解ってくれている人が居る。

それだけで凄く救われた気がしました。話しなさいと強要するでもなく、話したくなったら話せばいいよと待ってくれる温かさも感じました。
私が、クライアントさんや、経営者の皆様にしてきた事でもあります。けれども、私自身にもそんな場所があったんだなあと、自分が欲していた事にも気づいていなかったんだと知りました。何を言ってもいい人、自分の汚い部分を見せても、受け止めてくれる人が居るというのは有難い事だなと思いました。

私は誰かが本音を言える場所になっているのだろうか。
関わる人が、私でなくても、本音を言える場所はあるのだろうか。

理想に繋がらなくても、感情を安心して吐き出せる愚痴や文句などもある。
だったら、それを吐き出せる場所を大切にしたいものです。吐き出した後に、また前を見て進めばいいんですものね。

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