やらされ感からの脱出

子供の居る夏休み期間は、自分の思い通りに進まないこともありますが、それだけに新鮮な環境作りもしてみました。そのおかげで改めて考えさせられたことがあります。

小学2年生の子供のために、夏休み中には出張は極力減らしてみようと今年はトライしてみました。とは言っても、コーチングセッションはありますが、日々の中で子供と居る時間をこれだけ取れたのは勤めている時では考えられない程で、私にとっては貴重な体験でした。

その中で子供で実験というわけではないですが、試してみたいことがあったので、反応が早い子供に試してみたり、いつの間にか試されたりしていました。特に、「宿題」。子供にとっての「仕事」です。
夏休みに入り、宿題をやらされている娘。その後どんどんたまってくるように見える宿題。でも、じっと見守っている私を「甘い」と家族は叱ります。結局、周囲からやらされていましたが、以前お話したように、「しくみ」を作ることで、宿題が順調に進むようになりました。

けれども、必要以上のことはしたくないのが普通ですよね。私でも学生の頃はそうでした。友達と遊んだり、運動したり、宿題したり、お手伝いしたり、きっと子供なりには「忙しい」と感じていたように思います。でも、立場が変わると、見方は変わってしまうものですよね。
「しっかりやりなさい」「こうしなさい」と、結局命令してしまうんです。

もしも、それを言わなかったらどうなっちゃうんだろう?

黙ってみている私が結局叱られてしまいました。(苦笑)
でも、無理にやらせるのって、どうも好きじゃない。テスト前の即興テスト勉強みたいに、身についていくのかどうか疑問があります。「何とかやる気になってもらえれば、うちの子は集中力があるんだから・・・」
そんな思いで、また娘の大好きなシールを終わったらあげるということで、一作品を作り始めました。(とは言っても、娘なりの最小限は終わっているのですが、夏休みにこうしたいと言っていたものと違うので、ちょっと付け加えてほしかったという私の思いを伝えました。)
すると、最初はやりたくないから、答えを求めてきます。
娘「どうしたらいいの?」
私「どうしたいの?」
娘「わからないから聞いてるの!」
私「本当にわからないの?お母さんには考えたくないって聴こえるよ」
娘「そうだよ。考えたくないもん。メンドクサイ。」
私「そっか。じゃ、無理してやらなくてもいいよ。でも、これで一作品って言っていいのかなあ」
娘「いいの!」
私「そっか、じゃ、片付けようね。」
娘「ちょ、ちょっと待ってよ。片付けないでよ。考えてみるから」
私「そっか。一緒に考えてみよっか」
娘「うん。・・・。お母さん、ここの意味がわからない。」
私「ここの意味?お母さんは、こう思うんだけれどね。」
娘「そっか。じゃ、●●ってことかなあ?」
私「それいいね!それ、すごくいいと思う。」
娘「わかった!」
こうして、繰り返しているうちに、どんどん楽しくなってきたようで、終わった頃には3時間が経っていました。途中でジュースを飲んだり、テレビをつけてみたり、そんな事もしながらではありましたが、それでも3時間、止めるとも言わずやり続けていました。
そして、シールが30枚くらい貼ってあるシートから3枚だけもらっていきました。(完成したら全てのシートを渡すことになっています)

そして、私とのやりとりが終わった後に、家族に見てもらい、作品を褒めてもらったことで、更に娘は気分が良かったようです。

最初はシールが目的だった娘も、その宿題に取り組むことの中に楽しみを発見していました。そして、最後にシールをもらえたことよりも、そこまで出来たことが嬉しかったようで、何度も作品をみていました。そして、フォローとして家族に認めてもらえたことで、更に嬉しくなっていました。
入り口は「物でつってもいいのかなあ?」という思いもありましたが、その中で楽しみを発見できたら、シールは「おまけ」に変化するんですよね。よく「内発的(自発的)動機付けは長く続くが、外発的(物や報酬などの外から与えられる)動機付けは継続しない。」と言われますが、その意味を体感したような気がしました。

考えてみたら、私が昔から「何でこんなことやってんだろう?無意味だなあ」と思うような時、父に「意味は与えられるもんじゃない。自分で探せ!」と言われました。これもそういう事だったのかもしれません。
結局、それを考える時には、立ち止まって考えるよりも、やりながら意味を見つけていこうとしていた気がします。その中で楽しいことや、成長が感じられると、その事を意味やモチベーションに変えていたような気がします。

子供は、今朝もその宿題がやりたいからと学童保育に行くことを嫌がりましたが、結局出張に行かなくてはならない私の事情を話して、「わかった。帰ってからやる!」と納得してもらいました。
本当に子供が全て納得してくれているとは思いませんし、親としてのエゴだなと思う部分もあります。けれども、押し付けているだけよりも思いを伝え合っていくことで、話の内容は全て理解できなくても納得できる部分があった上で時間を過ごすことができるのかなと思います。

自分のエゴとの格闘の中に娘を巻き込んでいないか、本当に子供のために発している言葉なのか、自問自答を繰り返しながら、「仮にエゴであっても、伝えたい思いは伝えよう」と決めました。その分、娘も自分の思いをぶつけてきます。けれども、ちゃんと言い合ってでも納得できたとき、手をつなげる関係(結局は信頼し合える関係)で居られるのかなと今は考えています。

対話を増やす。思いを伝え合う。
単純なことなのに、この夏休み「うるさい!」と何度となく言われるほど娘とは言い合いました。でも、最後には「わかったよ」と言い合える。それでいいのかなとも思えました。
これが家族じゃない場合には、そうやって思いを伝え合える関係をどう作っていくのかが改めて大切なんだなとも感じることもできました。

あなたは、自分自身とどれだけの対話をしていますか。
あなたは、相手とどれだけの対話をしていますか。

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